映画から眺めるインド社会②:みんなで見られる夢
2/2加筆
一昨年前、「ボリウッドの曲がり角」問題について何度か考えた。
しかし、じきに『パターン』のような現代インディアの戦争・スパイ映画が曲がり角を乗り越え、ボリウッド健在をアピールすることになった。なーんだ、ボリウッドはまだまだまだまだインドのブランドとして生きているじゃないか!
文化の政治化を論じる
一昨年あまりしっかりと私の考えをまとめられなかった以下の主張について考えてみたい。
文化の政治化を正面から論じるとは真実どういうことなのだろうか。
最近のラーマ寺院再建という一大政治宗教グダグダイベントとタイミングを合わせて公開された寺院の再建(それが’彼らの「正史」だから)までの600年以上の歩みを描いた映画『695』なんかは、文化の政治化の好例と言っていいのかもしれない。ところが1週間もしないうちに私の住む町のシネコンから姿を消してしまった!どういうことなのだろう。
※つまらんことなのだが、未だに日本語のニュースで「ヒンズー教」と見ると、うううと思ってしまう。酷い時はヒンズー語と書いてるからね。
まず、「ヒンドゥー主義者」という一つのまとまった動きをする集団がいる。が、その信条故に暴力的になったりおかしなことを人に押し付けたりするのは、インドの中でもマイノリティなんじゃないかと思う。ただ彼らの突出した主張をわざわざ批判する多数派は少ない。
私の棲み付いたマハーラーシュトラ州では「ヒンドゥーインド」らしいオレンジの旗をいっぱい見るのだが、別の州、南部のタミルナドゥやケララ、テランガーナ等に行けば全く違う様相を呈している。
そういうこともあって、また、英米メディアの言うとおりの物語に対抗したい私には、ほんとにどうかと思うようなことを言う「ヒンドゥーインド主義者」が必死で文化の政治化を実施し、ヒンドゥーインドを演出している割に、見た目ほど、多数派を占めるヒンドゥー教徒の国民に対して広範かつ強力なインパクトを持ち得ていないのではあるまいか。「ああ、またか」と思っているように思う。ま、善きに計らえ、みたいな感じか。
それは非ヒンドゥーの少数派にとっては迷惑極まりないだろう。しかしそれはここではそこは取り上げない。マジョリティがどう反応しているかということを言いたいのだ。
ここの人達は、ミクロレベルにおいても、見た目の反応と本心がどうなっているのかいまだに分からない。
与党政治家やその支持者による反ムスリム的な言動や、イキった集団の暴力を見ていると、やられる方はたまったものではない。が、反ムスリム感情と反パキスタン感情は、ほぼ重なっていると見えるが、どうつながり、分離し得るのかも私には掴めていない(2月2日加筆)。
(余談。日本にいた頃、彼氏の友達でインド出身のムスリムの人がいた。前は彼ら含め何人かでつるんで遊んでいたらしいが、ある時、その人は「ムスリムだから」という理由でそのグループから締め出されたらしい。私と彼氏は彼らのコミュニティから遠く離れて住んでいたので、その人が時々うちに遊びに来ていた。とても悲しいこと。移民コミュニティの方が価値観が先鋭化しやすいのだろう。また、ムスリムの人たちが同じ仕打ちを他のコミュニティの人間に対してやらない、ということもなかろう)(2月2日加筆)
実感としてはもはや『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(2015年製作)みたいな、「印パ分裂を両国の民衆の心が乗り越える」という物語は支持されないだろう。まして、もっと前の『Veer-Zaara』(2004年)のような、印パの分裂と男女の哀しい恋愛を描いた映画のことはどうなってしまったのだろう。あれがシャー・ルク・カーン主演だったなんて、『パターン』観ちゃうともう信じられない。
『バジュランギ』や『Pk』(2014年)は、上記「文化の政治化」をやる現政権やそこに近い人達に対するカウンターの表現として、「正気の」映画と言える。かつての私もそんな風に考えたはずだ。
が、「我々ガイジンの思うボリウッドの良心」みたいなもの…アーミル・カーンの『Laal Singh Chaddha』のような…はどうして今受けないのだろう。
皆が観たい夢:スーパーヒーローと疑似スーパーヒーロー映画
次の記事を読むと、政治とは全く違う脈絡のことが書かれているので紹介しておきたい。
「ボリウッドの社会派ドラマは牽引力を失っている」というタイトル。
『きっと、うまくいく』『ダンガル』『バジュランギおじさんと小さな迷子』等、コロナの前までは順調にヒットしていたタイプの社会派ドラマがちっとも受けなくなったというトレンドについてこの記事は、
と言っている。この記事で触れられているヒンディー語のドラマ映画『12th fail』、つまり12回目の落第は、実話を元にした社会派感動ドラマ。ボリウッド「大作」のようなスーパーヒットはしていないものの、ボリウッド俳優(例えばディーピカ・パドゥコーンやアーリアー・バット等)からも支持され、第69回フィルムフェアでは、並み居る「大作」の中で12(何たる偶然)の部門で候補に挙がっている。製作陣は『きっと、うまくいく』。10年前なら即ヒットだったんじゃないだろうか。
しかし、今や配信サービスの普及も相まって、家と映画館で同じものが観られるなら、わざわざ映画館に行かないというのもうなずける。シネコン3回行くお金で、ローカルの配信サービスが1年間見られるとなれば、やっぱり配信でいいやって私だって思う。
インド式スーパーヒーロー映画『ブラフマーストラ』(2022年)の頃は、興行収入を上げてもアグニホトリ監督から「嘘だろ」と揶揄される始末だったし、ハヌマーンも登場するラーマ神話を描いた昨年の『Adipurush』は冷遇されたが、それらの作品が地ならしをした結果、今の『ハヌマーン』ヒットがあるようにも思う。
また、スーパーヒーローの現実版(軍や政府にちゃんと就職できているエリートたちの物語)の戦争・スパイアクションものも大人気だ。たくさん作られている。お国のために行われる爆発と銃乱射と大量殺戮が愛されるのは世界共通であろう。
現在大ヒット中で、私も楽しんだボリウッド大作『FIGHTER』は、実際に2019年にあったインド空軍によるパキスタン領内の爆撃を描いた映画。インド国籍の者たちが、宗教に関係なくインドのために戦っている姿を讃えている。これでもかとインド国旗を振り回すのだ。できもよく、結構感情移入してしまう出来だったし、実際大ヒットしつつある。
でも本作は、パキスタン政府はテロ支援をしてインドを暗に攻撃しているという認識に立ったお話になっている。一応パキスタン政府は否定しているらしいが、そういう争点になり得る点を決定的に描いているわけだ。これこそ『The Kerala story』なんか目じゃないレベルのプロパガンダではなかろうか。
インド精神のために踏んづけられるのは永遠の他者、パキスタンである。パキスタンという国境の向こうの集合体に象徴的に(時には戯画的に)犠牲になってもらうことで、インド側は集合的安定を手にできる。これではボリウッド批判のアグニホトリ監督も文句が言えまい。
この形で、ボリウッドは「文化の政治化」に抵抗(或いは適応や妥協?)しているように見える。国内において非ヒンドゥー教徒がヒンドゥーに合わせればいいんだ、みたいな、念頭に他者が存在しない、いかにもインディアな暴論は、さすがにボリウッドはやらない。が、紙一重のところではある。
でも、インドには他にもう一つ、多数派ヒンドゥー教徒の皆に支持される秘密兵器がある。宗教映画である。
宗教的シンボルを使った映画は健在
一昨年は、カルナータカ州の映画『Kantara』が大ヒットし、一世を風靡した。同州の一部で信仰されている神的存在と地元民との関係を描いた映画。
元々インド映画には宗教映画というジャンルが確たるジャンルとして存在している(バクティ映画と呼ぶらしい)。
私は『Satyam, Shivam, Sundharam』という昔のボリウッド映画を観て、「日本なら日本昔話のアニメ15分で片付けるお話を3時間も使って表現するのか」と感動した。
さて、『Kantara』は大ヒット作であるが故に、宗教がらみの論争も起きた。『Kantara』の地元の神は、果たしてヒンドゥーの一文化や宗教の一部なのかどうか?という、多分不毛且つ果てしない言い合いである。その中でDevdutt Pattanaikを知った。彼はオープンリー・ゲイの神話学者だそうだ。
下の記事は、最近のインド映画における神話の取り扱いについての批評である。
「悪いことは言わん、映画製作者は距離を置きなさい」というのが彼の主張である。
ちなみに『Kantara』についてはこう言っている。
同作は、疑いも無く、ブラフミン(司祭カーストでその中で一番上に立つ)という上位カーストと、かなり低いであろう下位カーストの軋轢が描かれており、後者をコミュニティ外の横暴から最低限守って来た地元神が、悪い上位カーストに対し天罰を下した上、インド政府と契約を結んで彼らの安寧を保証させ、もし破ったらどうなるかを政府の役人に見せつけた物語である。田舎における権力の在り様をちらっと見せつつ、本当の権力は下位カーストの側にあると示唆しているようにも見える。
かなり手厳しい研究者であろうDevdutt Pattanaikは、ヒンドゥー主義の上の方の最も過激な人たちにとっては面白くないはずのコンテンツなのにも関わらず、一部の人が特に位の高いブラフミンのための映画だと讃えていたという矛盾を鋭く指摘したのだった。
彼はこうも書いた。
要するに、最初の方で述べた「文化の政治化」を推進している一部のヒンドゥーインド主義の人達は「面白くない」から面白くていい映画は作れない、とばっさり切っている。私もあの人達にはユーモアが無いし、心が傷ついた経験も無さそうに見える。例えば『The Kerala Story』のような作品がそれに該当するのだろうか。あれは、ホラー映画としては優れていたが、人物たちは平板で面白みに欠ける感じではあった。ふむふむ…。
みんなで見られる夢=グローバルサウスの盟主
この国の状況を考えると、ある程度の「文化の政治化」は過激な集合意識のガス抜き効果があると見える。英米メディアのように、一概にそれを批判し、やめさせることがインドの安定、ひいては弱者にとって多少なりともマシな状態を作り出せるとは信じられない。
見た目にはあまりにモラルが低いように見えるわけだが、それを高く設定したところで、ついてくる人が少なければ意味がないのだ。
上記のラーマ寺院の「再建」イベントも、1週間過ぎたら皆忘れてしまったようだ。恐らく、ヒンドゥーインドでインドを塗りつぶしたいという野望を持っている少数の人達は、あまりに唐突で一貫性も無い(あれほど神話を侮辱している批判した『Adipurush』の挿入曲をラーマ寺院の落成イベントで流してしまう節操のなさ)ので、皆が本当にそっちに突っ走ることはないだろうと思う。
彼らのあまりにあまりな言動を見ていて楽しいかと言われると、楽しくはない。が、この国にしがみついて生きることを決めたガイジンが何を言うんだ、という気もしてしまう。
宗教もバラバラ、見ている方向もバラバラ、南北でも州レベルでもバラバラのインドで映画が果たすべき役割は、「インド、すごい」という軍事スペクタクル映画で何とかガス抜きしつつ、目の前の平和と繁栄にしがみつくことだろう。反ムスリム感情と反パキスタン感情を分離してお茶を濁すのだ。そして、現実には…予測不可能な日常と将来設計の不可能性に悩み、諦め、突発行動に走ることを繰り返す。インド社会全体の安定無しには誰も何も期待できない。人間は簡単に価値観を「アップデート」なんかできない以上(価値観をアップデートしろと言う人に限って自分の価値観を疑わないし)、今これしかないんじゃないかという気がするのだ。(2月2日変更)
夢は長続きせず、皆はすぐ忘れ、次の夢を求めるのだ。
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