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映画から眺めるインド社会①:若い男たちの就職先

最近、『ハヌマーン』というテルグ語のスーパーヒーロー映画がヒットしている。

正直言って、この予告編を観たときにはヒットするとは思えなかった。多分私の好みの映画じゃないからなんだろう…公開直後から人気を博し、順調にヒットを続けている。

監督はPrashanth Varma、主演は子役から経験を積んで来た若手俳優Teja Sajja。

このコンビの映画は前に観たことがあった。その名も『Zombie Reddy』!ホラーです。

「田舎の大家族の長年にわたる諍い&鉈」とゾンビ大発生を重ねたコメディ映画で、Teja Sajjaは、頭のよさそうな主人公マリオを演じた(ちなみに『僕の名はパリエルム・ペルマール』のヒロインが面白い役をしている)。

考えてみると、マリオくんの立ち位置は、インドの若い男たちのなにがしかを含んでいるような気がしてきた。今回は、ここ数年のインド映画の中から若い男性達の就職を巡る夢について考えてみたい。

インドの若者の本理想:親の金でビジネス

マリオ君は裕福そうな家の子供(レッディ姓の家はまあまあみたいね)。親の金でゲーム会社を作らせてもらったが経営がうまく行かず出資者の父親からにらまれている(そう言えばゲーマーが出て来る映画をインドに移住しに行く飛行機の中で観たな。)。この「親の金で会社を設立しかっこいい仕事をする(が親のひも付きなのでいつも怒られている)」っていうありようは、『Phonebhoot』の若造二人もそうだった。多分インドの一定レベル以上の階層の若造たちの夢なのであろう。夢であるからこそ、少し間抜けに描かれている。

更に階層が上と思われるボリウッド映画のヒーローたちはどうだろう。

Chandigarh Kare Aashiqui』のマヌは、北部のチャンディーガルで、親の金でやっているスポーツジムが経営危機に陥って家族の中での面目を失っている。まさにテルグのマリオ君と同じだ。筋肉量に彼の器が追いついていない。そういうインド男らしさがよく出ていたと思う。その上で彼は、家族主義からの独立を果たさねばならない。のだが、そこで結婚前提のラブロマンスが起爆剤として入って来るというのがインド男の現在地なのであろう。ラブロマンスということは即結婚を意味する。が、本作では「子供はできない」ということがはっきりしているのが変則技だ。

Tu jhoothi Main makkar』のミッキー、『Rocky aur Rani ki Prem Kahaani』のロッキー(この英語名を名乗る辺りがまたね…)は親の会社にそのまんまエスカレーターで就職しているように見えるが故に、結婚を巡り親や一族との対決を余儀なくされる。彼らの年齢は30代の設定だろうから、もはや若者とも言えない世代がそういう夢とその虚構性を表現してしまっているのは、日本から見たら異様なのだが、これがインドなのだ。

また、ミッキーを演じたランビール・カプールに関しては、俳優一家から出て来た人なので、ほとんど自分の人生を演じているようなものだろう。また、ロッキーを演じたランヴィール・シンは、恐らく裕福な家の子息で、ムンバイのナイトライフで遊びまくっていたところをスカウトされた人らしい。となれば、親の仕事から離れて俳優の道に進んだという意味では、ロッキーが役中で体験したイニシエーション、家族主義との決別を地で行った人なの…かもしれない。いや、恐らくは息子を自由に生きさせるご家庭だったのではなかろうか。

弱者男性、スーパーパワーを手に入れる

さて、社会の上の方の人達は何とかなるわけだが、下の方の「そこそこ」の人達はどうなっているのだろうか。

『ライトニング・ムラリ』。90年代、ケララ州の田舎の村。主人公ジェイソンは仕立て屋の息子で、アメリカ移住して一発当てて恋人と結婚しようと画策するも、恋人は村一番の金持ち男と結婚してしまい、クリスマスイブにどん底を経験する。

その後スーパーパワーを得た彼と対決することになるアンチ・ヒーロー男、シブは少々年齢が上だが、更にやばい感じだ。でもジェイソンは結婚や高収入職にしくじっているし、そのまま鬱屈してしまえばやがてシブのような、所謂「インセル男」になりそうだ。ジェイソン役のトヴィノ・トーマスがあまりにハンサムなので、そういう風に見えないというのが映画の上手い仕掛けだが、そうなるかもしれない悪い未来を自らの手で破壊したとも言える。

シブは違法な手段でお金を手にして自分の好きな女と結婚しようとする。相手の女性は出戻りで子連れ。彼女は結婚なんか懲り懲りだからシブに困りつつも、ちゃんと計算はしている。当然だろう。子供抱えてるんだから。

実際のところインドでは「結婚するのが当たり前」だから、行かず男なんていないんだと思っていた。が、貧しくて結婚できない鬱屈が、実は常に田舎の町に漂っているのだろう(でなければ、田舎の町の方が治安が悪いと描くタイプのインド映画は何を捉えていると言うのか)。

シブは本当に救われない役だが、彼を倒したジェイソンはアメリカ行きをやめ、インドという場所でしっかり生きていくことを決意する(そのラストがさーーーーやっぱりトヴィノ・トーマスの顔のよさのせいで誤魔化されちゃうわけよーーーー好き――――)。

だが…スーパーパワーがない男はどうなるのだろう?

ママと暮らす青年の危機

弱者というのは、情報にも弱く、少し手を延ばせば何かが手に入るのに、それをやろうという発想や元気や希望…すなわち数世代にわたって蓄積されるべき社会資本を欠いている(または、逆社会資本を得ていると言うべきか)。これは全世界的にそうなのであるが、自らを救うことをやめてしまうのが弱者の弱者たる所以でもあるし、彼ら(私は弱者ではないから)がそうなっていった様々な要因についても思いをはせることになる。それはアイデンティティー政治とも重なって更に複雑な展開をしている。

さて、私の好きな家族の闇ホラーの佳作『Bhootakaalam』について。現代ケララ州に住む若造くん、ヴィヌは、最低限度の生活ができていて教育も受けた層の焦りと不安を表象している。

彼は母と祖母と3人暮らし。父親は出奔、教師である母の収入で暮らしている。彼は教育も受けてきたようだ。彼は就職に失敗している。実は遠くの町で就職先が見つかっても、母親が難色を示して(ほら出た!家族の闇)彼はあきらめてしまったのだ。近くの町で就職先を探すときの彼と、面接者とのやり取りに最近のインドの様子が出ている。

ヴィヌは、「自分は誰々の知り合いで…」「母を助けるために他の町に行けなくて…」など言う。少し焦ると我々人間は自分の持つ社会資本(及び逆社会資本)を暴露する傾向にあるわけだが、現代の面接官は「そんなのは通用しないよ」とぴしゃりと彼を拒絶する。これは結構面白かった。

インド社会はもはや、縁故や家族主義が通用しなくなりつつあるのかもしれない。いや、通用する空間としない空間がまだら状態になっているのだろう。そもそも予測不可能性の高いインド社会が、上記のような上の方の男どもが家族主義というサポートをバックに華やかに暮らしている一方で、彼のような神経衰弱ぎりぎり層にとっては、更に予測不可能なものになっているのかもしれない。

ヴィヌのぐちゃぐちゃの髪と定まらない目線が痛い。また、彼の友人たちは「仕事紹介してやるよ」とかテキトーなことを言う。が、これもインド人が家の外の他人に対して示せる最大限のやさしさなのではなかろうか。酒を飲んでぐちゃぐちゃになるヴィヌが更に気の毒だ。

また、ママと二人っきりの息詰まる食卓の風景は最高だ!『へレディタリー』の鬼ママ・アニーとはまた違う、インド・ママの権力の行使が凄まじい。涙作戦も使って来たに違いない。あたしゃこんなに一生懸命育てたのにそんなこと言うなんて…というあれだ。

一応ホラーだから、その家の過去≒幽霊から離れるラストは明るいのだが、私にはちっとも明るく見えなかった。

ママと暮らす男、と言えば、最新版は『Salaar』のデヴァなわけだが、彼は超人なので別のレイヤーに属している。現実にいないのだ!が、ママからのすさまじい精神コントロールが危うい。

また別の視点の映画だが、父親と暮らすしか無かった男が海外に仕事を得て恋人もでき、幸せを得るものの、残された父親の様子がおかしくなってしまう映画『ジャパン・ロボット』も面白かったな。彼は若者とは言えないけれど。

予測不可能性に翻弄されるインド男達

少し前にこんな記事が出た。パリの空港でインド人を一杯乗せた飛行機が、「人身売買の疑い」があるとのことで止められたのだ。蓋を開けてみると、実は彼らは、ブローカーに高い金を払って中米に行き、アメリカ国境を超えて不法就労するつもりだったのだ。それがばれてグジャラート州に送還された彼らはどんな気持ちだろう。

記事にも出ているし、パンジャーブ映画にもなっているが、アメリカ国境を超えて北進するのは中南米人だけではない。容姿の似たインド人が多数紛れ込んでいるのは既に常識だ。

アメリカ映画で彼らの行方を知ることはまだできていない。アメリカで作られるインド系の物語はどれもこれも、富裕な家の二世の話ばかりだ。

インド移民二世がアメリカで人気映画監督になったりしている。

インドに来てようやくわかったことは、ここの若者達にとって、就職するということは非常にハードルが高いのだ。予測不可能性があまりに高い。後ろ盾があってやっと安心できるのだろう。しかし、実際はお金や後ろ盾があってもうまくいかないかもしれないし、どちらも無ければこの先ずっと苦しい生活が待っていると想像する。

何せ予測ができないからいつクビになるかもわからない。先のコロナ・ロックダウンのせいで仕事を失った人たちの行方はどうなっているのだろうか。何の補償もなく通りに放り出される様子を皆、横目で見ていたはずだ。

私の周りの若い男性たちも、学校卒業したからと言って即仕事につかず、何をしてるのかよく分かんないケースが散見される。IT企業にすんなり行ける人は一握りということなんだろう。会社を始めた人もいる。うまく行ってほしいが、映画を見ると…うーん。

他方で、子供の頃に、家族の店を手伝うために南インドから送られて来た人が、たまたまお店の経営を任されることになり、今そこそこいい生活をしているというケースも知っている。さすがは他州から来た商売人、地に足のついた人なのだが、それだって「たまたまそうなった」だけであり、もしかしたら、薄給でお店の手伝いに一生追われる形になっていたかもしれない。だが、実のところそれはかなりいい方だ。インドにはその予測不可能性をカバーしてくれる家族というバックアップが必須だし、それを使わないではいられない。または、お金のある人に頼ればいいのである。頼ることに躊躇いは感じられないのは、やはり、この社会の予測不可能な状態からしたら、無理もないのだ。

私はインド人の年下の彼氏をずっと養って来た形だが、彼の性根がずっと分からなかった。今は彼にトレーニングを受けさせているが、彼がそこからどういう形の自立を選ぶのか。

親のような気持ちと彼氏としての気持ちがない交ぜで、ずっと色々考えてきたのだが、彼の過去7年間の数奇な人生こそ、インドの予測不可能性そのものである。また、家族のバックアップを期待できない人が、どうすれば食っていけるのかという、無意識のインド的生存ストラテジーへの洞察も得られた。そこには居直りもあるし、誤魔化しや虚構もあると思う。

女性ならばそこに「結婚」というファクターも入って来る。女性に関しては今回取り上げなかったし、私は男性だから取り上げることは難しいだろうと思う。これについては近いうちにお話を出そうと思っているのでお楽しみに。

若い男があまりに頼りないと見えていたのだが、それを含めてインドのことが少しずつ分かってくる。それはなかなか面白い。

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