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映画 『[窓]MADO』 長文感想

12/17(土)昼の回、舞台挨拶付きで鑑賞してきました。
休日の池袋、満員の映画館では難しいかと思いますが、私と同じ化学物質過敏症の人はいらっしゃったでしょうか。

さて、これは実際に起きた横浜副流煙裁判を基にした映画で、なんと訴えられてしまった方のご子息が脚本監督です。

ともすると家族を擁護する内容になるのかと思いきや、主人公は原告側。
つまり、あなたの家のせいで病気になったと訴えられた人の息子さんが、訴えた人の側に立って映画を作ったということで、俄然興味が湧きました。

私は様々な化学物質、揮発性有機化合物により化学物質過敏症を発症して、当事者として絵本や漫画の原作を書いています。そのため、正直どんな映画なのか、ちょっとドキドキしながら見にいきました。

その感想は……
「よかった……!! けど……」

横浜副流煙裁判
2017年11月、タバコの副流煙で化学物質過敏症などに罹患したとして、隣人が隣人に対して、自宅での喫煙禁止と4518万円の損害賠償を求める裁判を起こした。
2019年11月28日に横浜地裁は原告の請求を全て棄却。
原告側は東京高裁へ控訴を申し立て、高裁は2020年10月29日に棄却した。

参考『禁煙ファシズム』鹿砦社

基になった裁判、実は今回はじめて知りました。
というと、どんだけアンテナ張ってないんだと思われるかもしれませんが、ご容赦願いたい。
とにかく映画を見るにあたって知ったのですが、最初から「裁判を起こすのは無理だったんじゃないか」という印象でした。
名古屋地裁のベランダ喫煙裁判や、花王の従業員が化学物質過敏症を発症したという裁判とは違い、原告側の主張は法的にも科学的にも弱い(後に弱いどころではないことを知るのだけれど)。

けれども、この映画は法廷モノでも近隣住民トラブルモノでも、未知の病気や科学のドキュメンタリーでもない。
2つの家族に降りかかった「孤独」についての物語でした。

混乱を避けるため、映画内の話は原告側を江井家、被告側を備井家と呼び、現実の話はA家、B家とします。
以下ネタバレあります。ご注意ください。

透明感あふれる映像でのびやかに歌う、江井家のお嬢さんの歌声で幕を開ける本作。しかし江井家の幸せは、彼女の呼吸困難状態で一気に崩れる。
外から入ってくる「ニオイ」で体調を崩す娘。

化学物質過敏症の発症者としては、
「分かる〜、窓閉めてもダメなんだよね〜。築何年?」
という、あるあるシーン。
しかしそこで彼らは、その原因を備井家のタバコと断定してしまう。

本当に? 他の可能性は調べた?
ベランダには近隣住民の洗濯物や布団。
それらの洗剤や柔軟剤、消臭剤などは?
自宅の建材や家具はどう?

発症者としては、じれったい

「あかんてー。帰宅したら服は洗濯、無添加の石鹸で全身洗ってー」
と、思わず応援鑑賞したくなっちゃう気持ちをグッと抑えるも、弁護士先生がスーツのまんま江井家に上がり込んだところで、
「服を脱げー! ヘアキャップしろー!」と心の中で悲鳴。
フィクションなのは分かってるけど、これが本当だとしたら初動で躓いてるのでは……と思ってしまう。

江井家側に味方する医師や弁護士は、揃いも揃って「受動喫煙」と「訴訟」ありきで話を進めている様子。なんだかキナ臭い。
どうも禁煙運動を進めたいが故に、江井家を使って思惑どおりの裁判を起こそうとしているような……。
未知の病に混乱している江井家は、他に手立てがないと思うほどに追い詰められている様子。

一方備井家は、口下手そうなアーティストのお父さんと、積極的な雰囲気のお母さん、物語を俯瞰で捉える存在のお嬢さん。
特にお父さんは、マンションの仲介役を交えての話し合いのあと2週間禁煙して様子を見てくれるなど、不器用そうだが誠実そうに見えた。

近隣住人との交渉事は些細なことでも慎重を要するが、ニオイ問題は人によって感じ方が違い、それこそ嗜好問題なのか健康被害なのかと拗れやすい。

私は結局引っ越し前のマンションでは、管理会社にしか全容は打ち明けられなかった。
実家に戻ったときは人当たりのいい両親を通して周囲に伝えてもらったけれど、どの家も「そうなんですか」で変わらなかったため諦めた。爆撃のように感じる柔軟剤のニオイもそのままで、こちらで防ぐしかない。
幸い、風向きなのか建て方が良かったのか、窓さえ開けなければなんとかなっている。

備井家のお父さんは喫煙者だ。それは隠してない。吸ってるのに「吸ってません、うちじゃないです」とは言ってない。
1日に1〜2本、自宅に作った完全防音の音楽室でだけ吸っている。もちろん1本だろうが2本だろうが、苦しいものは苦しいのも経験上理解しているが、防音室の内側にびっちり音楽機材があって窓も塞がれている。
映画内では多く描かれていないものの、現実でB家は色々と実地検分もしており、気象庁発表の風向きなどとあわせても、A家に煙が入ってるとは思えないとのこと。

ただしニオイは目も見えないし非常に小さいので、「うそだろ? ここから?」と、びっくりするような場所から入り込んでくることもある。
だから化学物質過敏症や嗅覚過敏状態の人からしたら、調べ方が甘いと思われるかもしれないが、一般的な範囲で備井家は対策したといえる。

しかし江井家の父は、日増しに具合の悪くなる娘と、同様の症状を見せはじめる妻を抱え、彼らの言い分を受け入れることができず「嘘をついている」という思いを募らせらる。

ここで盛大なネタバレですが……

実は江井家の父、元ヘビースモーカーで、現在もコッソリ吸っているのだ。
だから、これは想像でしかないけれど、自分のせいで娘が発症したかもしれない重圧に耐えきれず、誰かのせいにしなければいられないようなキワキワまで追い詰められていたのかもしれない。
その切羽詰まった様子が、西村まさ彦の演技でビシビシと伝わってくる。

もちろん、そんな男の沽券とか自意識のせいで4500万円もふっかけられた備井家はたまったものじゃない。さっさと自分の喫煙歴を認めて訴え取り下げて謝ってくれと、怒り心頭に達しても頷ける。

一方、これもまた発症者あるあるだけれども、発症数年は絶望的に症状が増悪して、多くの人が一度は自ら命を断つことを考える。
だって恒常的に息ができないのだから、ずっと溺れているのと同じ状態。死んだ方が楽とまで思ってしまう。
今あっけらかんとしている私でさえ、そうだ。もはやのたうち回る気力もなく、床に転がったまま瞬きだけして、死にたい……いっそ殺してくれ……と思っていた。
実際、発症後にそうなってしまった話や一家離散という話も聞く。

病と壊れていく家族の苦しみ、誰も助けてくれない孤独。助けてと言えない65歳。昭和のお父ちゃん。江井家父、ストレスからまた吸っちゃう。ダメだって分かってるのに、泣きながら吸っちゃう。悲しい! ダメだけど!

江井家は、備井家に対してはそれこそ病的な執拗さを持ってしまっているけれど、それ以外では慎ましく善良な一家に見える。
対する備井家は、アーティスト然としていて、ちょっとはみ出しものな雰囲気。
ともすると見た目からして、不遜な備井家に苦しめられる江井家というイメージが出来上がる。

でも時間が経つにつれ、備井家のお母さんの髪が真っ白に。ストレスから白髪が急に増えてしまったのですね。
そりゃそうだ。普通に暮らしていただけなのに訴訟を受けて、集合住宅内からも白い目で見られ、あからさまに避ける人も出てくるのだから。
これも悲しい! 見てるだけで悔しい!

みんな、どうして分かってくれないの?
あいつらが粘着してくるのが悪い。
本当は病気でもないんじゃないの?

もしもそんなふうに感じていたとしても、私は不思議ではないと思う。

集合住宅の外観には、整然と並ぶ窓、窓、窓。
窓の数だけ家がある。人がいる。
たくさんの人が住んでいるのに、どの窓も閉まっている。
2つの家族は、大勢の中で孤独に陥っていく。

ねえ、この断絶は、一体どこから解きほぐせばいいの?

孤独は心を蝕む

ある日突然化学物質過敏症で家庭がめちゃくちゃ。
ある日突然4500万円の訴訟を起こされ白い目で見られる。
どっちも精神崩壊しておかしくない。

勝訴した備井家の団欒シーンは、温かくも、どこか切ない。
「勝った! よかった!」では終わらない。

現実に、B家のご子息は感じたのだろう。
「で、A家はどうなるの?」

控訴で提出されたA家のお父さんの日記は、監督の言葉を借りれば、
「素朴な静かな文体で、とつとつと書かれているのですが、
Aお父さんのやりきれなさ、家族への愛、哀しみ、孤独、寂しさ、葛藤、憤怒、・・・」
などがあり、
「静かな文の中に、沢山の感情が見えて来たのです。」


映画鑑賞の帰り、パンフレットとともに置かれていた『禁煙ファシズム』も購入した。強めのタイトルで、手に取るのも一瞬躊躇ったが、一気に読みました。
内容は、この裁判の一部始終をB家側から取材したルポである。
非常によくまとまっていて、土台無茶であった裁判の全体像が把握できた。

だが、これは厳密には「全体」ではない。
あくまで「B家側から見た全体」なのではないか。

化学物質過敏症をまったく知らない人が『禁煙ファシズム』を読んだとき、もしかしたら最悪こう思うかもしれない。
「病気は嘘で、A家はカネに目が眩んだんじゃないか?」

でもA家父が書いた日記を読んで、B家息子は「沢山の感情」を読み取る。

こんな乱暴な言い方は気が咎めるが、あえて強い言葉を使うのを許してほしい。
「あるかどうかも分かんないような病気を盾にして、とんでもない訴訟を起こして負けた相手なんか、『知るか』で終わってもおかしくないのに、この監督はこの映画を撮った」のだ。

私たち化学物質過敏症患者とその家族が抱える、煉獄のような苦しみと孤独を、監督は「訴えられた側」にも関わらず汲もうとしてくれた。

いいや。それも違う。
そもそも人と人の間に、「どちらの側」なんてあるのだろうか。

これは、そういう映画なのだと思った。

人は区別をしたがる。
分からないものに名前をつけて、区別して、理解しようとする。
しかし区別は、時に断絶を生む。
物事はグラデーションの中にあり、流動的である。
区別してしまうと、その動きを止めてしまう。
認知とは、現在進行形の主観だ。
主観は、一方的なものの見方。
だから常に認知し続けなければならない。
見方を変えて見続けなければならない。

監督が舞台挨拶の冒頭で、概ねこういうことをおっしゃっていたと認知しました。(間違っていたら、認知しなおしますね)

これは私たち全員の物語だ

私たちは、自分の目からしかものを見ることができない。
「他人の立場を考えて」と言われても、究極的には他人の立場は分からない。これは真理だ。
他人の頭の中は読めないし、どうしたって自分の価値観が基準になるし、相手を変えることはできない。
知見を広げても、限界はある。

正解とはなんだろう。
真実とはなんだろう。

起きた事象は同じでも、立ち位置が違えば見えるものも変わる。

「隣人トラブルが大きな訴訟問題に発展し、精神的に追い詰められながらも、心強い仲間を得て一丸となって勝訴を掴み取った物語」
の隣に、
「家族が病に倒れ、思い込みや掛け違いから拗れてしまい、弁護士や医師のいうままに無茶な訴訟を起こして棄却された家族の物語」
がある。

そこで私の最初の感想に戻る。
「よかった……!!」と書いたのは、上記の理由からだ。
B家の立場でありながら、A家の孤独に寄り添おうとしてくれた監督に「よかった……!!」と伝えたい。

そこに、「けど……」が続く。

私は発症者だ。
だから以下のことが、どうしても気になる。

「お嬢さんは今、無事なのか?」

あれから増悪していないか?
ご飯は食べられているか?
使える洗剤は入手したか?
セーフティールームはあるか?

「よかった……!! けど、お嬢さんの具合は……??」

映画は、我々に考える機会を与えるいい作品だった。
喫煙者も非喫煙者も、化学物質過敏症の発症者も非当事者もみんなで、
「私はここでこう思った」
「私はこの人に感情移入した」
「この人のことは分からないけど、そういう視点もあるのかと思った」
など、それぞれの見方を、立場を話し合って、知見を広げるといいと思う。

そういった対話が「窓を開ける」という行為だと思うから。
自分だけの「それはおかしい」じゃなくて、他の視点も加えてみる。

だからたとえば「この人はどうしてこの時こういう行動を取ったの? そんなのおかしい。間違ってる」と思ったとしても、立ち止まって、その人物がそうするだけの、”その人物なりの合理的な理由”を考えてみたり、あるいはその行動に理解を示す誰かの意見を聞いてみる。
それが対話の第一歩だろう。

でも何より、私の一番の関心ごとはA家のお嬢さんだ。

化学物質過敏症の機序や、この病気があるのかないのかとか、医学的な話を横に置いておいたとしても、あれだけ体に”反応”が出ている状態で6年。

江井家は「犯人は備井家」と決めてかかったことで、他の可能性という窓を閉めてしまったように見える。それがお嬢さんの回復の妨げになっていなければいいが……と、心から願う。

周囲の思惑や意地で被害を被るのは、立場の弱い人

ここで一番弱い立場なのは、江井家のお嬢さんだろう。

つい請求金額の高さに注目してしまい、病気の科学的根拠を争点にしてしまう。空気が本当に綺麗なのか汚れているのかが気になり、もがき苦しみ暴れたり新興宗教にハマったりする江井家を奇異な目で見てしまう。

でもそんな場合じゃない。
人が一人「息ができない」と悶え苦しんでいるのは緊急事態だ。
死にかけた人を前にしたら、何が嘘で何が本当かなんて吹き飛んでしまうはず。
たとえは悪いが、戦争映画を見ていると、ついさっきまで戦っていた血まみれの敵兵を思わず手当てしてしまう場面がある。でも本来、それが人間という生き物だ。
こうして感想のような駄文を書き連ねている間も、彼女が少しでも楽に呼吸できているか、ふと頭をよぎる。

最後にもう一度。 
「私が見ているのは、私から見た世界」

B家(『禁煙ファシズム』)から見たとき、それは無茶な高額訴訟をされて傷つきながらも家族や仲間一致団結して勝利する物語だ。

しかし麻王監督は別の見方をした。
訴訟を起こしたA家のつらさに寄り添おうとされたのだ。
そしてどちら側でもない作品を撮られた。

私も化学物質過敏症関連の書籍を制作するとき、いつも考える。
「私が見ているのは、発症した私から見た世界でしかない」
私が当たり前に感じる酷いニオイも息苦しさも、他の誰にも分からない。
たとえ同じ発症者でも、この症状は原因も反応も人によって違うため、私と完全一致することはない。

すべての事柄はグラデーションの中にあり、流動的なのだ。
仕切り板を立てて区別して、流れを堰き止めるべきではない。
監督はそれを『窓』で表現された。

上映後のロビーで「面白かったです」と声をかけた私に、待機列を区切るロープの向こうにいた監督は手を差し出してくれた。
私たちは、まるで開け放した窓の向こう側とこちら側ように、ロープの上で握手した。

私の窓は開いているだろうか。
そしてあなたの窓は、開いていますか?


http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000730

2023年11月9日追記
11月18日(土)から渋谷ユーロスペースで1週間公開だそうです。
(ニオイや音と記憶、体験等は密接に関係しているといいいます。作中の喫煙シーンや煙の演出、音などでフラッシュバックを起こすかもしれません。お気をつけください)




化学物質過敏症って?

ダイレクトマーケティングで失礼します。
化学物質過敏症に興味を持たれた方はこちらもぜひ。
買って読んでくれたら嬉しいです。漫画で分かりやすい!

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