歴史から学ぶとは
心を豊かにするもの
私は読書が好きである。
だから必然的に本屋も好きで、店先で
オッ、これ面白そうだな!
と思ったものは、ジャンルに関係なく手当たり次第に買って読む。
特に歴史小説とミステリーには目がない。
またNoteを始めて2年あまりが経ったが、おかげで書くことも好きになった。
これまで自分の歴史観(特に近代史)や旅の思い出(特に鉄旅)、日々思ったり感じたりしたことを、エッセイにして綴ってきた。
読むことに「書くこと」が加わって、定年後の人生にさらに彩りを添えることができた気がする。
ただ、やはり「書く」となるとどうしても、読むことよりも手間がかかってしまう。
読み手がどう受け取ってくれるかということに気をつかい、いろいろ考えて筆がとまることもよくある。
この表現でよかったかな
読んだ人はどう思うかな
楽しんでくれるかな
少しはためになったかな
傷つく人がいないかな
スキ、コメントがつくかな・・・
など、ネットという仮想空間の中ではあるが、いろいろな思いに振り回されながらも毎回PCのキィを打っている。
現代はネット社会で、今やすべての情報をPCやスマホで網羅できるといっても過言ではない。
そのなかで、音楽や映像に関する情報、つまり目や耳で判断するものは、どちらかというと感覚的に入ってきやすい。
しかし文字の情報というものは、そういうわけにはいかない。
日本語特にひらがなは、本来文字それぞれに意味があるらしいが,現代においてそこまで理解している日本人はあまりおらず、漢字、ひらがな、カタカナ、時にはアルファベットまで組み合わせて文章となって初めて他人に伝わる情報になる。
いわば単なる記号でしかない文字がつながって文章としての意味を持ち、それが人の頭に入って理解され、そのうえで思考や感情などが築かれるわけであるが、その受け止め方は、読んだ人の人生観や価値観などで千差万別だろう。
つまり「書く」ということは、そのようないろいろな読み手の内面に入って思いを創造するということになる。
これがひと昔前なら、物を書くということは書斎でペンを執るというスタイルだっただろうが、今やPCやスマホとネットという便利なものがあるおかげで簡単に自分が発信したことを相手に伝えることができ、かつ他人の発信したものも入手できる時代になった。
そしていつまで経っても字のへたなことから手書きすることが苦手な私としては、大いに助かっているという一面もある。
ただ読書、つまり「読むこと」だけは、やはり本そのものを手にとって読んだほうが頭に残るような気がする。
電子書籍だと満足感が足りないような・・
藤原正彦という数学者が書いた本で
「スマホより読書」
というものがあり、そのなかで
スマホで読んだものは情報
でしかなく、本で読んだもの
が本当の知識や教養になる
というくだりがあるが、言い得て妙だと思う。
以前「読み・書き・そろばん」というタイトルのエッセイでも書いたことがあるが、やはり時代は変わっても「読み・書き」というものは、人の心を豊かにするものだと思う。
そのことが分かっていたからこそ、昔の人は力を入れ、その結果日本人の心を日本語という精緻な言語で豊かに育んできたのだと思う。
江戸時代には寺小屋という教育機関があったおかげで、日本語は他国の言語に比べて複雑かつ精緻なものであるにもかかわらず、識字率(国民が読み書きができる割合)は9割を超えていた。
これは当時の欧米先進国でさえ到底及ばない高いものであった。
その頃の日本は、まだ欧米諸国に比べて経済的には貧しかったが、精神的には高度な文明社会であったのだ。
当時日本を訪れた欧米人をして
日本人は貧しい
しかし高貴な民族だ
と言わしめたのは、まさにこの読み書き文化に支えられた民度の高い国民がいたからにほかならない。
そしてこの高い識字率があったからこそ、それが他国の知識や文化を取り入れる基礎となり、開国後急速に先進国の仲間入りを果たすことができた要因ともいえる。
しかし現代は、スマホ全盛の時代である。
確かに、便利な道具で私もよく活用するし、多くの人がスマホの画面を見ているのも特段奇異な風景ではなくなってしまった。
でも街に出て、スマホの画面ばかり見ている人たちを見かけると、何か寂しさを感じてしまう。
それぞれが自分の世界に閉じこもっているような、他人との間に壁を作っているような気がしてしまう。
ではひと昔前、つまりスマホがなかった時は、人々はどのようにして過ごしていただろうか。
公共交通機関のなかであれば、学生は参考書を広げたり、社会人であれば新聞や文庫を広げたり、そうでなければ友人と会話したり、車内の他人を何気なく観察したり、外の移りゆく景色をぼんやり眺めたりして過ごしていたものだった。
ところが今や、そのような多種多様な人間模様は見れなくなった。
他人に関心をもつ人も少なくなり、スマホ一択といった風景である。
むろん
読書や友人とのコミュニケーション
なんて、スマホでできるよ
と反論する人もいるだろう。
でもそれは全てスマホというバーチャルな空間の仮想現実でしかない。
そこから得られるものは、藤原氏が指摘したとおり、やはり一過性の「情報」でしかないように感じてしまう。
生身の人間と言葉を交わす、手に取って本を開く、自分の眼で観察したり景色を愛でるといった人間の五感を活用する行為とは全く異なるものである。
スマホでだんだん人間らしさが奪われていくような気がすることは、何とも寂しい限りだ。
若い人で、生まれた時からそういう環境が当たり前の人は、私のような感傷にひたることはないかもしれないが、時には便利な現代に浸るだけでなく、過去、つまり自分たち日本人の生きざまを歴史から学ぶのもいいかもしれない。
過去があっての現在だから、自分の立ち位置に迷ったら過去を振り返るのが一番だと思う。
それが歴史から学ぶということではないだろうか。
前述したとおり、私は歴史的に物事を見るのが好きであり、そしてそれを内容としたエッセイを中心にして書いてきた。
歴史にif(もしも)はない
と言われるが、歴史を学ぶことによって、過去の先人の失敗や成功をつぶさに眺めることができ、あの時こうしてたら、こんな判断をしていたらという選択肢をいくつも想像し、考えることができる。
そしてそれは今を生きる知恵となり、かつ将来に生かせる。
ところが今の日本の歴史教育というものは、この「歴史にif(もしも)はない」という大前提に立って、定まった事実である年号や歴史学会で定説となった知識しか教えようとしない。
そのほうが今の受験科目として画一的に点数をつけやすいという一面があるからかもしれないが、それでは歴史のダイナミズムは味わえない。
今の歴史教育では、今を生きる知恵を見出すことはできないだろう。
かつて日本は、イラン・イラク戦争の時にトルコ政府が日本人救出のために救援機を出してくれたにもかかわらず、その歴史的理由が分からずに赤っ恥をかいたことがあるほどである。
(詳細は拙著「最も多かったのは日本だった」をご覧いただきたい)
科目としての日本史が面白くないのは、そのようなところから来ているのではないだろうか。
先人たちが歩んできた道は、成功あり失敗あり、苦難あり、喜びあり、涙ありの波乱のものであったろうし、それはこれからも同じである。
そしてそこには、いろいろな知恵が詰まっていることを思う時、日本史を単なる受験科目として終わり、遠ざかるのはもったいない気がする。
宝の山を捨てているようなものだ。
読書も同じである。
本を読むという行為は単に知識や教養をつけるということだけではない。
それは単なる読書の成果であって、そこに至るにはまず、本を読むという集中力が必要である。
そして読んだことを理解するためには、論理的な思考力も必要となる。
読んだことからいろいろな感情も発生するので、想像力も豊かになる。
書くことも同じである。
文字で発信するということは、それらの力を他人に提供する行為であり、単に読むことよりもさらに大きな労力を必要とする。
人生を豊かにするのは、この思考力や想像力である。
またこれがあってこその人間らしさでもある。
しかしそれは、すぐに身に着くものではないと思う。
歴史が長い間かけて培われたものであるように、読書で得られる思考力や想像力なども一冊読んだから得られるというものでもなく、長い年月をかけていろいろな本や雑誌などの文字文化に接することによってはじめて人格形成にかかわってくると思う。
スマホのなかった時代の多くの先人たちは、そうやって歴史や文献から知識を積み重ねて、苦労して日本の文化を形成してきたのだ。
それが今や人間の知恵はほとんどデータ化され、スマホで検索すれば簡単に分かる時代になった。
しかし簡単に分かることはもはや「情報」でしかない。
私がこうして発信していることもネット情報でしかなく、矛盾している感もするが、できるだけ多くの方が私のこの拙い「情報」を端緒として、本を手に取って読むこと、そして書くことの素晴らしさ、歴史から今を生きる知恵を探る楽しさを見出していただけたらと思う。
そして日本人としての感性を高めることが、グローバル社会においても他国と違う日本らしさ日本人らしさを失わない方策のひとつになる気がする。
高説を垂れるような語り口になって申し訳ないが、今回は読み書きに対する私の偽らざる心境を日本の歴史を踏まえて言葉にしてみたかった。
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