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腹を割って話そう❗

腹を割るのは日本人だけ?

    あるネット記事で知ったくだりである。
    日本語教室で、日本人の先生が
            腹を割って話す
という表現を教えた時に、生徒の外国人のひとりから
            それは、武士の切腹からきてる
            言葉なのですか?
という質問をされたらしい。
    それに対して、先生は
            それはないでしょう
            だって、切腹したら話どころじゃない
            でしょう?
とジョークで返して教室は爆笑だったとか。

   ちなみに「腹を割って」という表現は、英語では「heart to heart」とか「frankly」と言うらしく、英語で話をする時には、決して腹は割って話さないらしい。
 しかし日本では、「腹をくくる」「腹の底から」「腹黒い」「腹を固める」「腹の虫がおさまらない」「腹がおおきい」などなど、枚挙にいとまがないほど腹を使った言葉は多いので、「腹を割って」の語源も気になったこともあり、ちょっと調べてみた。
 すると昔の人は、本当にものを考えるのは頭ではなく腹だと考えていたようで 、そのことから思考を伴う表現に「腹」の文字が数多く使われてきたということが分かった。
 つまり、「腹を割って」とは、日本人にとって「本音」とか「本心」という意味なのだろう。

 ただ、現実問題として、人生において本当に「腹」をさらけ出したてばかりいたら、微妙な人間関係が崩れてしまい、それこそ家庭や仕事など、生きていくいく上で必要なものが崩壊する可能性さえある。
 そこはさじ加減の問題だろう。
    時には「腹におさめる」ことも必要で、人生において「腹」をさらけ出すことが全てではない気もする。

 でもなぜ、昔の人は、ものを考えるところが、心ではなく腹と考えたのだろう。
 欧米人は、「heart to heart」という表現を使って本音をさらけだすように、本来物事を考えるのは「heart」つまり心であり、決して腹に心はないのに・・・

 そこで、「心」を使った表現を調べてみて、その理由が分かったような気がした。
 「心」を使ったものとして、「心が躍る」「心が折れる」「心かたむく」「心がさわぐ」「心が通う」「心が動く」「心揺さぶられる」などがあるが、どうも心というところは
    喜怒哀楽、つまり感情に支配
                されるところ
と考えられていた節があるようだ。
 だから日本人は、物事を深く考える時は、心だけで考えずによく熟考してから「腹を決めた」のか・・・
 
 一方欧米などでは、かんかんがくがく、口角泡を飛ばし、激論を交わして物事を決めるようなシーンが散見されるが、あれはお互い「心から」自己主張しあって結論を出す欧米的やり方なのだろう。
 ただ、そのあとに人間関係のしこりは残らないのだろうか。
 そこはそこと割り切るのが欧米流か。
 日本人だったら、自己主張をし合って出した結論というものには、そのあとに、しこりやわだかまりが残るのではないかという発想をしてしまう。
 どうしても、その後の人間関係を考慮してしまうのだ。
 それは、聖徳太子依頼、日本の国是ともいえるものになってしまった
     和をもって貴しとなす
つまり、「何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良い」という考えにも通じるものがある。

 それらのことを考え合わせると、日本においては、「腹」でものを考えるというのが利にかなっているように思う。

 ただ日本では通用しても、国際社会では通用しないものも多々あり、この「和」を貴しとする発想もそのひとつだろう。
 グローバル社会といっても、しょせんどの国も自国の利益最優先であり、そのためにはあらゆる権謀術数を駆使するのが世界の常識である。
 そのなかで、「和」を貴ぶ精神でことに臨もうとしているのは日本だけであることが、外交面を見ていてよくわかる。
 ある意味、他国から見れば、日本はお人よしに見えるであろう。

 むろん「和」の精神は日本オリジナルであり、日本文化が世界的にひろまっていっている現在、それが世界的風潮となることを望まないわけではないが、国家の大事や国の命運をかけるような決断に至っては、とことん「心から」の議論をして結論を出してほしい。

 人間関係やしこり、わだかまりが残ることを危惧して、「なあなあ」とか「あいつが言うことだから・・」など、変に「和」の精神を優先したり、目先の人間関係に捉われたりせずに
    国家百年の計
を見据えた国の舵取りをしてほしいものだ。  

 


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