目醒めー記憶喪失、歩行不能、嚥下障害を経て/SLE(全身性エリテマトーデス)という難病とともに生きる(23)

<2018年2月>

 「結構時間掛かったね」

    順調にリハビリをこなし、ペーストからお粥、軟飯、パン、麺と、日々嚥下機能の改善とともに、レベルアップしていく食事を楽しみながら、本を読みふけり過ごし、いよいよ私の退院日が決まった。

    その2日前、妻と義母、私の母の3人で、主治医から退院に関するレクチャーを受ける事になった。退院日は、自分で要望していた通り、私の41歳の誕生日前日となった。私の2017年は、苦痛と混乱の内に幕を閉じ、そして、大切な人々と新しい1年を晴れやかに迎えるという事が、全くもって叶わなかったので、せめて自分が1つ歳を取るその日こそは、自分の努力の結晶でもある自宅で、 大切な家族と笑顔で清々しい気持ちで、新しい一年を迎えたい、そう考えていた。 

「うん、まぁ色々聞きたかったから」

    と、妻が奥歯に物が挟まったような言い方で、曖昧に答えてきた。これから色々頑張らないといけないだとか、元の立場に戻れるか分からないし、戻れても待遇だって変わるかもしれない、だから生活もイチから見直さないといけないと言うのだ。更には、バリアフリーのリフォームも必要になるかもしれないとまで言う。

    私は、私自身から見れば、その脈絡の無い話をさっぱり理解する事が出来なかった。妻も既に分かりきっている筈だったが、会社には、ちゃんと長期療養について規定もあるし、 第一に、特に問題を起こした訳でもないのに、病気で3ヶ月休んだ程度で処分される筈もない、そんな会社ではないと説明した。更に、これも妻なら理解していた筈だが、入院前には、会社に身も心も捧げるかの如く、ハードワークをして一定の功績を挙げている筈なのだから、すぐに他の人間にすげ替えられる訳がないと断言もした。そもそも、バリアフリーが必要なんて事も、全く腑に落ちない話だった。私は、既に廊下の手すりに掴まって、フットサルのトレーニングとして、自ら考案した片足スクワットも少しずつやっていたので、きっと時間をかければ、以前の様に手放しでも出来る様になり、身体能力を完全に元に戻せるという自信があった。それでも、妻や義母は、私が本当に大変な事態に陥って今に至る訳で、そんなに簡単なものでもないと伝えてきた。私は、その事を一部理解しつつも、現に回復してきている自分と、折角回復した私の所に顔を見せては、不安ばかり煽る妻と義母との感覚の大きな隔たりに、少なからず苛立ちの感情を覚えた。
    私は、それまで常に有言実行してきたし、妻に自分の能力を疑われる様な事も一度も無かった。それなのに、どうも釈然としない彼女たちの態度が気に掛かり、歯痒い想いをしながらも、一体何が彼女達の腹の中にあるのか、頭の中でそんな考えを巡らせて、皆が去った病室で1人悶々としていた。

    希望通りに退院した私は、凡そ90日ぶりに自宅へ戻る事となった。母の運転する車で自宅に戻る途中、車窓から目に入る風景に不思議な感覚を覚えた。まるで、全てが絵か模型の様に見えた。それこそ、"シャバの空気は違うぜ"、そういう異世界の感覚だった。

    久々の自宅に戻り、存分に寛いだ。だが、其処は慣れ親しんだ我が家という感覚と共に、どこか知らない場所の様な違和感も少なからず有り、あるべき物の場所が良く分からなかったりする所があった。

    程なくして、仕事を早退して切り上げた妻が、子供達を保育園から連れて帰って来た。 続いて、義父母も遅れてやってきた。晩餐は、私のリクエスト通りに手巻き寿司としてくれた。年明けに意識が回復してきた頃、目の前で皆が食事するのを見て、寿司を食べたいと言ったシーンが頭の中に蘇った。ああ戻って来られたんだ。自由に食べたい物が食べられるんだ。私は、じんわりとその感動に浸った。

    皆に、家で家族で食事をすることが出来る幸せを伝えると共に、迷惑を掛けてしまい、辛い想いを沢山させてしまった事を詫びた。皆は、これから大事に長生きして、しっかり恩返しをして貰わないといけないね、と笑いながら語った。あどけない子供たちを除いて、私はもとより皆が眼に涙を浮かべていた。

    食後、炬燵で子供達に絵本を読んでやった。かなり喉の力が落ちていたので、声を上手に張る事が難しかったが、3ヶ月振りに子供の為にしてやれた父親らしい行為に、大きな満足感を得る事が出来た。

~次章~耳を疑う言葉

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