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【連載小説】 夕刻に死す 【全十話/第五話】


 広瀬のアパートに転がり込んでから三週間が過ぎても尚、「すぐに越すから」と見栄を切ったはずの鶴巻は引越す様子さえ見せなかった。勤務後の日払いの五千円は相変わらず受取り続けている様で、中年二人の同居生活に割と清潔好きな広瀬は業を煮やす場面も時々あった。

 例えば深夜まで飲み明かしたテーブルの上に残された食材やパック、缶ゴミ等は片付けてからではないと落ち着かない広瀬に対し、面倒くさがりの鶴巻は片付けようとするたびにダダをこねるのだ。

「ヒロちゃん、そんなん明日の朝やれば良いじゃねぇかよ」
「ダメだっぺよー、こういうのが原因でゴキブリが湧くんだって」

 なんだ、テメェの仲間じゃねぇか。そう思いつつ鶴巻はヘラヘラと笑いながら、年に合わないでんぐり返しなどいきなり始めたりするのだ。天に昇り切らない足が宙空で折れ、片付けている最中のテーブルを見事に直撃し、醤油皿と空き缶が数本床に転げ落ちる。

「何してっぺなぁ! ほらぁ、手伝えよ!」
「あしーたーがあるー、あしーたーがあるー、だよー? ヒロちゃんよう。ダメだ、俺もでんぐり返し出来ない年になったんだなぁ」
「ったく……この」

 居候が。そう言葉に漏らしそうになるも、広瀬はグッと堪えて息を呑む。
 大家の嫌がらせを受けて家を出るしかなかった(と思い込んでいる)故、体たらくな姿を見せる鶴巻に対し、広瀬は上手く責めることが出来ないままでいた。

 前のアパートの荷物は処分してしまったのかもしれないが、あの問題の偏屈大家さえ説得、改心出来ればすぐにでも鶴巻はこの家を出て行くと決心してくれるかもしれない、と広瀬は考え始める。
 説得へ向かうと言えばきっと鶴巻に止められると思い、広瀬は派遣会社の井ノ瀬に適当なことを言って鶴巻の前住所を聞き出し、次の休みにでも出向いてみようと心に決めたのであった。

 休日の前夜、アパートに残されていた鶴巻の私物処分代を支払いへ行く、という名目で井ノ瀬に前住所を訊ねてみると実にあっさりと伝えられた。

 休みの朝になると鶴巻は「不動産と、図書館へ」と言ってその実、競艇場へ出かけたのを見送ると、広瀬は伝えられた住所を頼りにアパートを出た。
 アパートは二つ離れた駅のすぐ側に在る住宅街の中に建つ小さな物件で、ワンルームのようだが部屋数は六つしか無かった。
 適当な部屋のインターフォンを鳴らすと学生風の男が出て来たので、間髪入れずにドアを押さえ、広瀬は訊ねた。

「ここの大家さんって、何処に住んでっか分かる?」
「あっ、隣の黒い家です」
「アレね、ふーん。あのよ、兄ちゃん。鶴巻さんって方、世話になってたことない?」
「ツルマキ……いや、ちょっと僕は、分からないです」
「そっかそっか、あんがとね。お邪魔しました」

 出て行く時は「住人達の引き止めにあった」と鶴巻は言っていたが、あの学生風は最近越して来たばかりなんだろうか。そんなことを考えながら、広瀬は大きな身体の肩を怒らせながら、アパートに隣接する黒い大きな一軒家へ向かうと、覚悟を決めてインターフォンを鳴らす。
 鶴巻の話を信じていた広瀬は、大家が話し合いの一つも出来ぬほど偏屈な爺であれば、拳の一発くらいは見舞わせてやる気でいたのだ。
 しばらくしてスピーカーから声が聞こえて来たが、声の主はどうやら鶴巻の言う偏屈爺ではなく、まだ自分と同じ年ほどの女の声であった。

「はい? 須崎ですけども」
「あの、突然すいません。隣のアパートのことでお話しがあります。私、広瀬と言うもんです」
「今行きます、ちょっと待ってて下さいね」

 間もなく木造りの大きな玄関ドアがガチャリと開くと、小太りの婦人が顔を覗かせた。やはり年齢は五十代と見え、相手の警戒を解かせる為に広瀬は頭を下げて微笑んでみせる。

「あの、そこのアパートの大家さんは?」
「大家は、あのぅ……私ですけど? 何か?」
「えっ、じゃあ先代は……」
「あら、お義父さんの知り合いでしたの? もう何年だろう、十年ほど前に脳溢血で……」
「あー……えぇっと、そうだったんですかぁ。あの、鶴巻さんってご存知で?」

 その途端、大家と名乗る女の顔が般若のように険しいものに豹変したのであった。これには流石の広瀬も肩をビクッと震わせた。

「鶴巻っ……名前も聞きたくない! あー嫌だ嫌だ! 何、あなた鶴巻の知り合いなの!?」
「えっと、俺は……なんつったら良いんだろ……」
「あの人とはもう金輪際関わりたくもありませんから! 失礼して下さる? 出て行かないなら警察呼びますから」
「ちょ、あの……すいません、失礼します」

 女のあまりの剣幕に及び腰の後ろ足で家を離れた広瀬であったが、脳内では様々な疑問が溢れ、飛び出し、そして踊り始める。

 鶴巻が言っていた問題の大家は爺のはずであったが、もう十年前に死んでいるというではないか。しかも今の大家はあの女主人な訳で、つい先日まで暮らしていた鶴巻の大家はつまり、爺ではなく、あの女主人ということになる。
 どえらい剣幕で鶴巻のことを拒絶していたが、一体何をしたらあれだけの拒絶反応を示すと言うのだろう。
 広瀬は一か八かで、もう一度インターフォンを押す決意をした。

 鶴巻の一友人であるとの事情を説明し、せめて彼の私物処分代だけでもお渡ししたいと申し出ると、女主人は快く中へ招き入れてくれた。

 帰り道、広瀬は鶴巻に対して憤りを通り越し、呆れ果て、肩を落としながら帰っていた。
 女主人は処分代を他人様から受け取る訳には行かない、と頑なに断り続けていたが、半ば無理に押し付けるような形で頭を下げ続け、何とか受け取ってもらえることに成功した。

 が、それが一体何の為になるんだろう。義理の為に金を渡したようなもので、実際には金をドブに捨てただけじゃないかと思ってしまうほど、広瀬は鶴巻という男に落胆していた。

 女主人の話によれば、アパートに鶴巻が引っ越して来たのは春先のことであった。
 独身中年という事もあり、大家は孤独死の心配をしていたのだが、それ以前の問題がすぐに発生した。
 なんと鶴巻は初回の家賃分を納めず、その後もビタ一文足りとも入金することがなかったのだ。
 保証会社から家賃は補填されたものの、かなり厳しい取立てを受けようとも鶴巻は改善する気配すら見せなかった。一度だけ家賃催促の為に部屋を訪問しに行った所、酒に酔った鶴巻にこんな文句を言われたそうだ。

「大家さん。家賃とは言いますけどね、こんなボロアパートに人が住んで“やってる”だけでもありがたいと思って欲しいんですけどねぇ……だって、防犯になるでしょう? それこそ常駐なんて警備会社に頼んだら莫大な金が掛かるんだから、逆に払ってもらいたいくらいですがね。それくらい分かるでしょうよ、え?」
「そんな。だって、契約書で「毎月納めます」って交わした約束があるじゃないですか」
「あんなのは方便ですよ。実際メンテナンスも、設備も行き届いていない部屋に住んでますけどねぇ、言ってみたらこっちが騙されたようなもんなんですから。あんまりゴネるなら、こっちも出るとこ出ましょうか?」
「ちょ、何を言っているんですか……? 契約は契約です、お願いですから払ってください!」
「契約契約うるせぇんだよ、この成金ブタババア!」
「ひっ……」
「そんなに金が欲しいなら、このあばら家を建て直してから請求しろってんだ馬鹿野郎! てめぇばかりイイ所に住みやがって! 見下して楽しんでんだろ? おい」
「し……失礼します」
「待てよ。成金のおまえはな、そういう目をしてるんだよ、おい、待てよ」

 酷く酩酊している様子の鶴巻は曇った眼鏡の奥から身の毛もよだつほど鋭い目をして逃げる女主人を追い掛けて来たものだから、それ以来すっかり萎縮してしまい、後の回収は保証会社に一任して鶴巻に関わるのは止めたものの、トラブルは絶えなかった。

 隣人との間で酒が原因の警察沙汰を起こしたり、女主人が同居している息子夫婦の嫁にネットリとした視線を送ったり、考えたくもない事だが、嫁の下着が紛失する、といった事もあったそうだ。

 鶴巻は結局ただの一度も家賃を支払う事なく夜逃げしてしまい、後の処理は女主人の方ですべて行ったのだという。
 半年とわずかしか住んでいなかったはずの部屋の中は荒れに荒れ、壁紙は剥がされ、床には悪臭を放つ正体不明の染みがあちらこちらに出来ており、修繕費はかなりの額に及んだのだと言う。

 鶴巻に嘘を吐かれ、まんまと信じ切っていた広瀬であったが、呆れつつも何とか鶴巻を人並にしてやりたい、という親心のような気持ちが芽生え始める。
 その為には多少の厳しさも仕方なし、と心に誓うのであった。

 夕方にアパートへ戻ると、鶴巻の姿はなく広瀬は先に晩酌を始めた。
 午後七時を回る頃になって帰って来た鶴巻は土産の焼鳥なぞを広瀬に見せてご機嫌を伺っているようであったが、怒りが噴き出すのを堪えながら広瀬はここへ座るようにと、小さなテーブルの隣を指差した。

「何だよ、ヒロちゃん。おっかない顔して。女にフラれたか?」
「今日な、大家の所へ行って来たんだ」
「ふーん。ここの大家ってのは、やっぱり年寄りなのかい?」
「馬鹿野郎! オメが住んでたアパートの大家の所だっぺよ!」

 鶴巻はまさか、と思いつつも急いでビニール袋に入った焼鳥パックを取り出し、その旨々しい香りでこの場を凌ごうと画策するも、テーブルの上に開いた焼鳥はパックごと広瀬の野太い腕に払われてしまった。

「こんなもん買って来る金があるならな、一円でも大家さんに返そうと思わねぇのか! ええ!?」
「何のことだか、さっぱりだが。どうした?」
「どうしたもこうしたもあるか! さんざ人に嘘こきやがって! どういうことかイチから説明しなくてもな、全部聞いたど!」
「嘘って、なんだよ……は?」
「大家は爺だってぇ? 俺らと年の変わらねぇババアじゃねぇか!」

 鶴巻は震える手で床に転がった焼鳥パックを回収しつつ、無視を決め込もうかどうか、思案し始める。
 怒り訛り全開でキレ狂っている東北ヤクザ相手では、何か一つ言葉を発するたびに火に油を注ぐことになるだろうと、脆弱な本能が察していたのだ。

 腰をかがめて焼鳥を拾い上げた鶴巻は、何の言葉も返さずに広瀬に背を向け、のそのそと台所に向かう。

「あちゃー、名店「鳥芳」のネギマがバラバラだわ……よし、皿に移そう。ここんちの焼鳥はな、バッチリ炭が効いてて美味いんだ。特にビールとの相性なんかは」
「今は焼鳥の話なんかしてねぇっぺやぁ!」

 次の瞬間、鶴巻の視界は急速に前方向に向かって飛び出した。背中に広瀬の本粋のヤクザキックを喰らったのである。
 すっ飛んだ弾みで焼鳥はパックから豪快に飛び出し、鶴巻はシンク部分にある台所収納扉に顔面を強打した。

「ま、待ってくれ! 痛い、痛い!」
「どういうことか聞くまで俺ぁ待たねぇ」
「勘違いなんだ、その、話が擦れ違ってるだけなんだ!」
「嘘はもういい! 正直に洗いざらい全部話せやコラァ! それとも指詰めるかこの野郎!」

 広瀬は台所から包丁を取り出して顔の前へ突きつけると、やっと観念した様子の鶴巻が土下座をし始める。

「こ、この通りです……どうか……」
「ふん。オメの土下座はずいぶん安い土下座だなぁ。そんな土下座、こっちゃいらねぇって。家賃、一円も払って無かったんだな?」
「……それは、その」
「払ってなかったんだな!?」
「は、い……」
「まさかオメ、うちにいる間も折半じゃなくて諸々タカる気で無かったのか? え?」
「え、それはない! 断じて、違う!」

 畜生、低知能の東北馬鹿クソヤクザの癖して、何でわかったんだ? いや、そもそもヤクザならヤクザらしく任侠を立ててそいつをコチラに向け、仁儀だか義理だかで勘弁してくれるのがお天道様の下を歩けないクズゴキブリ共のせめてもの償いのはずじゃなかったのか? まさか、この暴力装置は自分の事を「更生を果たした真っ当な人間」とでも勘違いしているのか? なんで犯罪者ではないこの俺が、コジキ焼けした前科持ちの黒ゴキブリに説教などされなくてはならないんだ……!
 そう思いながら顔をチラと上げると、眼前に迫るのは広瀬の強顔ではなく、拳でもなく、こちらへ切っ先が向けられた包丁なのであった。

「今から嘘一個でもついたら、目玉抉るぞ。慣れたもんだで、すぐにブスっとイクからな」
「待ってよ……ちょっと……」
「で、これからどうする?」
「今日にでも……あの、出て行き……」
「おい。違う所刺してしまうから、ちゃんと顔上げてこっち向けろ。いくぞ」
「ひゃあっ! やめて、やめて! お願いです、やめてください! 勘弁してください!」
「だったらこれからどうすんのかハッキリ言えやこの野郎! テメェに出来ることは数少ねぇどコラァ!」

 怒号と共に、土下座して着いていた鶴巻の左手の薬指と真ん中指のちょうど隙間に、勢い良く包丁が突き刺さる。鶴巻は言葉を漏らす余裕もなく、その代わりに小便を漏らした。


第四話はこちらから


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