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【連載小説】 夕刻に死す 【全十話/第六話】

 新しいアパートが見つかるまで、という約束で広瀬の暮らす八畳間のワンルームに転がり込んだ鶴巻であったが、それまで広瀬に吐いていた数々の嘘が暴かれ、包丁片手に三白眼の視線を一切外そうとしない元・ヤクザの広瀬を前に、震える手で念書を書かされるハメになっていた。

「わ、たくし、鶴巻、弘は、広瀬、信也のアパートを、今後三ヵ月以内に、出て行くことを、必ず、お約束しま、す」
「書きながら一々喋るな。さっさと書けや」
「は、はい」
「家賃は折半だからな。必ず、毎月十日に納めること」
「はい……はい」
「ただの一回でも遅れたらよ、指詰めてもらうから。当然だけども、十日より先は待たねぇど」
「へっ……は、はい」

 前の大家には一円の家賃も支払わなかった鶴巻であったが、元本職の広瀬の本気の恫喝と多少の暴行、そして恐怖による失禁がトラウマを生んだのが功を奏し、同居し始めてから一ヵ月後の家賃は滞りなくきちんと納めるといった改心まで見せるようになっていた。

 仕事終わりに日払いの五千円は相変わらず受け取り続けていたものの、広瀬の提案によって共同貯金なるものが作られた。

「鶴ちゃんは自立の為、俺は散々迷惑掛けた田舎のおふくろに孝行する為、少しずつでもこの中に貯金して行こうや。な?」

 そう言って広瀬は「百円ショップで買ってきた」という今となっては文化遺産のような豚の貯金箱を八畳間のテレビ台に置いてみせた。おふくろに親孝行、とは言いつつも、広瀬はここ数年、母親とは顔を合わせていなかった。父親が亡くなった時も、死の知らせを受けることなく、葬儀にすら参加していなかったのだ。
 カタギではなく極道として大半の時間を過ごして来た広瀬だったが、二つ下の弟もまた、極道であった。

 親泣かせの兄弟だとは自分達でも分かっていたものの、若い頃から暴れ者として町中で厄介がられていた二人は、極自然とヤクザの道を歩んで行った。
 広瀬が三十歳になる頃、会派は同じでも組が違っていた実弟が大きな抗争中に的にされ、とある繁華街の喫茶店で射殺された。

 組を上げての葬儀が行われたものの、ほとんど絶縁状態にあった生家の仏間にはおよそ数年にも渡って骨壺に入れられた状態のまま、遺骨が放置され続けていた。
 生粋の東北人として誇りを持って農業に向き合って来た広瀬の父親は、二人息子の道外れた生き方を頑なに否定し続けた。

 一人ならまだしも、二人も揃って極道の道へ進んだことで実の息子である信也が弟を唆した挙句、死なせたのだと込んだ父親は、残された一人息子を心の底から恨み続けていた。
 広瀬も「唆す以前に組が違う」とは言ってはみたが、父親から見れば同じヤクザに変わりはなく、その世界のことを理解する気はハナからなかった。
 正月も盆も、広瀬が帰省しても生家の中へ入ることは許されず、幾ら年月を重ねても決して敷居を跨ぐ事は許されなかった。

 そうして、和解がないまま父親がこの世を去り、遠い福島の地に一人残された母親も近頃では足腰がめっきり弱くなり、週に数回デイサービスの世話になっているというのが現状なのであった。

 数年前に足を洗ってカタギに戻ったとは言え、今さら母と親子の関係に戻ろうとも思えず、父も弟も亡くなっている為、家族というものは既に形を失くしている自覚はあった。しかし、それでも最後の最期には何やら親孝行めいたことをしてやりたいという心残りが、広瀬には常にあったのだ。 

 それを口実に共同貯金用の豚の貯金箱を置いてみたものの、鶴巻が家を出る時の軍資金にしてもらえれば良い、というのが広瀬の本音でもあった。実の母と二人きりで過ごす時間はいつも沈黙が漂っていて、そこかしこに後悔を色濃く浮かび上がらせてしまう為、広瀬は未だに過去の時間を受け止め切れずにいたのである。

 一方、日払いで受け取る五千円の前給与をその日の内にパチンコでせっせと溶かす日々を送っていた鶴巻であったが、広瀬に全てが暴かれて以降は日にギャンブルに注ぎ込む金は「三千円」までとし、残った二千円を家賃分としてプールする自制力を身につけられるようになっていた。
 時には三千円のギャンブルを血の滲むような思いで我慢し、近所のスーパーにて半額総菜を買って来て広瀬と分け合うことさえあった。

「ヒロちゃん、マルエイでフライが半額だったよ。トンカツが二百円で買えたよ、ラッキー!」
「おぉ! 鶴ちゃん、トンカツなんてずいぶん豪華版だっぺなぁ!」
「へへへ。三つも買ってきたんだ。一個、冷凍しとくかい?」
「おお、そうすっぺ」

 などという慎ましい一面さえ元来クズ人間である鶴巻が見せることもあり、炊事や洗濯も率先して行うなどという奇行同然、驚愕の行動に出ることさえあったのだ。
 その生活態度の激変ぶりに広瀬の目にはあの恫喝や念書がよほど効果があったように見えたのだが、心の奥底まで毒気に塗れた、否、毒が湧いて止まらない鶴巻は心の中でこう呟いているのであった。

 半額フライなんかで喜び腐りやがって、この百姓ヤクザの貧乏人め。なぁにが豪華版だ。銀座一等地の職人が揚げるトンカツを食った事がないから、そんなエタ臭い戯言が平気で言えるんだ、馬鹿舌東北人め。どうせおまえらは塩っぱいモノでも食わせておけば満足なんだろうに。せめて受取人が俺の保険にでも入ってくれて、大好きな塩でも食い続けてポックリ逝ってくれたなら無縁仏にアイスの棒でも差してやろうとも言う気にもなるが、このクソヤクザは俺を金銭面から生活面からすっかりコントロールしているつもりでいやがる。
 お前にあの底辺職場で妙な噂でも流されたらたまったもんじゃないから、こうして機嫌を取っているだけに過ぎないってことに気付け、クソめ。この家を出たら、もう二度と口などきいてたまるか。俺まで反社だと思われたら、とんでもない恥になる。

 と、相変わらずのクズっぷりなのであった。

 彼らが勤めるハート物流にも繁忙期というものがあり、例年では十一月から年末に掛けての時期がそれにあたっていた。
 新人を募集しても元より低賃金な上、職場の雰囲気も実際の現場も全体的に薄暗く、将来何かの役に立つスキルが身につく訳でもなかったので、三人が現場見学に訪れたものの全員が全員、難色を示したので結果的に鶴巻は残る形となってしまった。

 繁忙期の入口に差し掛かる頃には作業中にハナクソをパレットにつけている余裕などなく、広瀬と鶴巻は朝から晩まで文字通り馬車馬となって働き詰めていた。
 土曜も休日返上で勤務になる週が増え、そうなると金を使う暇もなくなるので自然と豚の貯金箱に入る資金も増えて行く。あまりの忙しさに現場で腰を下ろす暇もない日々は、恐ろしいほどのスピードで年末へ向けて一気に加速して行った。

 その間にも広瀬は身の回りの環境整備は怠らず、冬に備えてそれなりに値段の張る温かなダウン、そして運動と移動を兼ねた新品のスポーツサイクルを購入していた。  
 鶴巻が家を出る頃になっても広瀬は部屋で悠々と煙草を燻らしており、国道を走るトラックが引き連れた朝の寒風に身を震わしながら歩く鶴巻を平然とスポーツサイクルに乗る広瀬が追い越して行くのが冬の光景になりつつあった頃、鶴巻は自分の装備を見直してみることにした。

 自称「ダウン」として日頃着用しているのはリサイクルショップにて三百円で購入した濃紺のボロボロの釣りベストで、これも「仕事道具がいっぱい入るからな」と現場では聞かれてもいないことを堂々と語り、先手を打ったつもりで見栄を張っていた。しかし、同居人があからさまに良い物を手にするのを目撃する度に購買欲は増して行き、ついに鶴巻も自転車を購入する決意に至ったのである。

 とは言え、欲しいと思ったその週に余裕を持って使える金は五千円余り。新車の自転車は最低でも二万と値が張る為、インターネットの掲示板で五千円で売られている銀色のママチャリを見つけた際には、眠りこける広瀬の横で思わずガッツポーズを取ったりしたのであった。

 自転車の持ち主はまだ大学生で、三つ離れた駅で待ち合わせることになった。インターネットでやり取りしている内は相手方が男だとばかり思い込んでいたのだが、実際に会ってみると売主はうら若き女子大生で、三十年も張り替えていない畳の裏側の如く重く湿った性欲を持て余す鶴巻は彼女が散々乗りこなしたであろうサドルに目を落とすと、たまらず口角を上げてしまった。

 無精髭と曇り眼鏡、そしてボロボロの釣りベストといった格好の鶴巻に若干の恐怖を覚えつつ、女子大生はロータリーで自転車登録の抹消届けと共に自転車を受け渡そうとする。
 鶴巻は抹消届けを受け取る前に女子大生を人差し指でさすと、自身の突き出た顎を触り始めた。

「お嬢ちゃんは、ご年齢はいくつなの?」
「私ですか? あの、今年二十一になります」
「じゃあまだまだ熟れないね……へへ、華の女子大生だ。な?」
「じゃあ、あの……五千円になります」
「五千円、ね。その前に一つ聞きたいんだけども、オジサンの質問に答えてもらっても、いいかなぁ? まぁこの場合はコンシューマーからの質問、という形になるんだけどね」

 鶴巻はやはり突き出た己の顎を触りつつ、サドルと女子大生を秒毎、交互に凝視しながら質問をする。

「この自転車はさ、お嬢ちゃんがずっと乗っていたんだよね?」
「えっと、私は出品者……あの、彼氏の代わりです。乗ってたのは彼氏で、駅前で同棲するからもう乗らないっていうから……それで」
「あー、そう。そうなんだ、ふーん……」
「はい……あの、何か問題ありますか?」

 乗っていたのが男だと分かった途端、スンと覚めた目つきになった鶴巻はサドルから目を離し、自転車の車体をまるでカメラマンが構図を測る時のように指でポーズを取って捉え始める。
 そして、何度かわざとらしく首を傾げた後、ぶつぶつと独り言を漏らし始めるのだが、これも女子大生が恐怖するだろうという計算の上での行動であった。

「あの……どうかしました?」
「ふぅむ。お嬢さんの彼氏君だけどね、ちょっとばかし危機管理能力に難がありそうだよね。少なくともこの自転車は五回のインシデントを経験していると見たな」
「え?」
「うーんとね、まずフレームなんだけどね、見て? ねぇ、ちゃんと見てご覧よ。曲がってない?」
「えっ。そうなんですか? フレームとか言われても、私は自転車のこととか、ちょっとあんまり分からなくて……」
「あっそう。じゃあ教えてあげるけど、普通だったらこのレベルまで乗り続けていたらね、逆にこっちがお金貰う立場なんだよね。車だって廃車にするのにはお金が掛かる。これ、社会常識ね」
「車、乗らないんで……もうそろそろお金、いいですか?」
「うん、ブレーキもだいぶ減ってるようだし、危ないなぁ。それとね、ハンドルの固定が……これ、危ないんじゃない? ほら、ほら!」

 鶴巻は自転車の前タイヤを両足の間に挟みながら「ほら!」と何度も大声を出し、激しくハンドルを左右に動かし始める。その異様な姿に駅へ向かう通行人達は好奇な目を向けるものの、鶴巻は一向に意に介さない。そうなると、とっとと用件を済ませたい女子大生はこう言わざるを得なくなる。

「わかりました、あの、じゃあ三千円でどうですか?」

 その声を聞いた途端、鶴巻はハンドルを動かす手をピタリと止め、ズボンの尻ポケットから剥き出しの千円札を五枚取り出し、指先に中年唾をつけてから三枚数え、女子大生の胸の前に突き出すのであった。

「まぁ、値を下げてもらった所でハンドルを直すのに二千円は掛かりますから……ざっと、そんなもんでしょう。構わないですよ、三千円で。今回、お嬢ちゃんにはいい社会勉強になったと思うので、本来お金は相殺という形が望ましい所ではありますが……三千円ね。はい、オジサンが買いました」

 女子大生はまだ尻の温度の残る生温い三千円を慌てた様子で財布に押し込めると、頭を数回下げてその場からすぐに立ち去った。
 鶴巻は自転車のベルを鳴らすと、振り返った女子大生に向かって、周りが振り返るほどの大声をあげる。

「可愛いお尻のお嬢ちゃん、ゴムは付けないとダメだからね!」

 女子大生はその声に何の反応も示すことなく、ビルの角を曲がって消えて行った。
 鶴巻はその後姿にクモの糸のように纏わりつく視線をじっと向け続けていた。視線は女子大生の姿が消えるまで、その尻に向けられ続けていた。

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