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【連続小説】 夕刻に死す 【全十回/最終回】

 中古自転車に跨り、無我夢中で漕ぎ続けてハート物流から脱出した鶴巻は携帯電話の電源ボタンを押すと、営業担当の井ノ瀬に電話を掛けた。電話に出た井ノ瀬は鶴巻が留置所に留め置かれているものだとばかり思っていた為、驚きを隠せない様子であった。しかし、ほんの微かだが声色に鶴巻の身を案じるものが混じっていた。

「鶴巻さん? え、鶴巻さん!?」
「井ノ瀬、テメェ俺が犯罪者じゃないって、ちゃんとハートに説明しとけよこの知恵遅れの低脳野郎めが!」
「いや、説明っていうか……とにかく話を聞きたいのはこっちですよ! 鶴巻さん、どうしちゃったんですか? 今、何処にいますか?」
「何処って、ここどこだ? わっかんねーよ、ハートのクソ馬鹿連中に泥棒呼ばわりされて田舎道を自転車で走ってんだよ、こっちゃあよ!」
「ていうことは、釈放されたって事なんですよね? 広瀬さんの財布盗んだって、マジっすか?」
「盗んだんじゃなくて、母親が倒れたから急遽借りたんだよ! だからその、こうして今は自由の身でいられるんだから!」
「そうっすか……一応ハートには話しておきますけど、広瀬さんからさっき連絡あって……」

「広瀬」という単語が鶴巻の鼓動を速め、身体の動きを制止した。自転車に急ブレーキを掛けると、重たく錆びれたギィィイ、という音が埼玉特有の倉庫と畑だらけの景色辺り一帯に響き辺る。

「おう、田舎ヤクザが何だって?」
「そんな言い方、やめて下さいよ……あの、突然ハートを辞めたいって電話がありまして。雰囲気もいつもと全然違ってて、引き止められなかったっすよ」
「おい、ちょっと待てよ。あの野郎、まさか俺に財布を盗まれたと被害妄想して(実際盗んでやったが)、ショックで自殺なんか考えてるんじゃねぇだろうな?」
「いや、そんなんじゃなかったっす。もう、破れ被れっていうか……絆で繋がる本物の家族はやっぱり良いとか、訳分からない感じで……鶴巻さん、大丈夫っすか?」
「何がだよ、俺ぁ何があっても大丈夫だよ。別に何も悪いことなんかしてないんだから」
「だと良いんですけど……」
「なんだよ、その糞詰まりみたいな言い方はよ」
「いや、広瀬さん……鶴巻さんのこと「ぶち殺す」って言ってましたよ」
「ちょ、なんだよそりゃあ! おい、おまえがあのクソヤクザに何とか弁明しておけよ」
「いや、既にうちを辞めたスタッフなんで。財布のことは当事者同士で解決して下さいよ」
「なんでそうなるんだよ? おまえは俺が、この俺がどうなってもいいっていうのか!?」
「まぁ、そうですけど。ハートに広瀬さんが辞めたことの報告しなきゃなんで、もう切りますね」
「お、そしたらアレだよ。俺はいつでも動けるってさ、そう伝えてくれよ。あの田舎ヤクザがいなくなったらさ、現場で動けるのは俺しかいなくなるんだし、ハートだって断るはずがないんだから」
「いや、それは無いと思います」

 ブツッと音がして、電話はそこで切れた。

 この薄情者のクソガキめ! 俺を見殺しにするとはいい度胸だ。それに人材管理もロクに出来ない癖に、生意気に「それは無い」だと? 先見の目がねぇからいつまで経っても三流奴隷会社の駒使いから抜け出せねぇんだ、馬鹿野郎。あんな現代病代表みてぇな弱小物流会社の仕事にしがみついてないで、三菱や三井辺りのデカくて頑健な会社相手にこの俺をセールスしてみやがれ、どさんぴん派遣会社のド阿呆めが。

 そう思いながらも、ハートは実際に警察を呼んだのだろうかと恐怖し、財布を盗られた広瀬に殺害される可能性を肌で感じ始めた鶴巻は、夜になるまで国道沿いの目についた激安ネットカフェに身を潜めるのであった。 

 男脂の匂いに満ちた薄暗い鍵なしの二畳半個室にいる間、すぐにでも転がり込めそうな安アパートを探して片っ端から不動産屋へ連絡を取ってみたものの、流石に年末のこの時期では今日の今日で対応してくれそうな不動産屋は皆無だった。

 結局アパートを探すことは諦め、途中外出をしてコンビニで酒とツマミを買い込み、一万円を競輪用の口座に突っ込んで数百円ずつ賭けながら結果見事に溶かし切り、揚げ物のコンビニ油に胃をやられ、トイレで飲食したものを全てブチ撒けている内に夜になってしまった。警察の手、そして広瀬に見つかることを恐れ、それからもう二晩も同じネットカフェに泊り込み、酒を買い込んで同じことを繰り返し、結局盗んだ財布の中にあった四万円のうち、二万円以上も散財してしまうのであった。

 十二月二十八日。
 拠点を移す為にネットカフェを出ると、年の瀬の空には紫色の夕暮れが広がっていた。
 全てが失敗、悪い方へ悪い方へと進んでしまった。本来ならば今頃有馬記念で持て余した金で優雅にホテル暮らしでもキメているはずが、財産は他人から奪った金が残り二万円弱。職場連中からは「電気泥棒」呼ばわりされ、警察を呼ばれそうになった(恐らく呼ばれた)挙句、同居人の元ヤクザからは「ぶち殺す」と宣言までされる始末。どうしてこうなったんだと苛立ちを募らせながらも、鶴巻が「自業自得」だと反省する気配は微塵もなかった。
 鶴巻にとってはこの世界のあらゆる出来事は全ては他人事であり、自分の中の出来事こそ、この世界の全てなのである。

 隣町のネットカフェへ拠点を移す為に自転車を押しながら歩き出すと、年末の夕刻にも関わらず妙に生温い風が吹いていた。国道を走る車両は普通車よりもトラックが多く目についた。
 終始飲み食いしていた所為か、歩くたびにズキズキと痛み続ける頭に嫌気が差しつつ歩道を自転車を押しながら歩いていると、向かいから小さな男の子と女の子、まだ若そうな母親の三人組がやって来た。
 子供達ははしゃいだ声を出しながら何やら意味不明な言葉を元気に喚いていたが、それとは対照的に母親の表情は翳ったような、思いつめた様なものに見えた。
 母親は大きなキャリーケースを引いており、鶴巻はひょっとすると自分と同じく当て所のない人間なのではないかと思案し始める。
 親子が擦れ違えるほどの幅を作る為に自転車を寄せて歩くと、いよいよ親子が擦れ違う距離に迫ってくる。

「奥さん、この先にネットカフェがありますよ。でも、子供が居たんじゃ邪魔になるかもしれませんね。あんた、女なんだからシェルターに行ったらどうです。何も死に急ぐことなんか、ありゃしませんよ」

 同じ境遇の誼だろうか。柄にも無くそんな言葉が浮かび、鶴巻は薄暗い影を纏う母親に声を掛けようか迷い始める。
 いや、しかしこの女も、クソガキ二人も、ただの他人に過ぎない。ガキがいなけりゃチン棒の一発でもブチ込んでやっても構わないが、邪魔くさい。つまり、一円にもならない人助けなど無意味。子持ちの女に用はナシ。幾ら暗い顔をして歩いていたって、他人はおまえの顔に興味など持たない。この自意識過剰者め、道路の真ん中を歩きやがって。死にたいなら、親子共々勝手に死ね。

 そう思い返しながら親子が通り過ぎた間際、母親が子供達に声を掛けた。

「あんず、ゆうた。じぃじのおうち、もうすぐだからね」

 鶴巻の絶望的な妄想とは裏腹に、母親の声は晴れやかで活き活きとしたものだった。それは家族を持つ者、そして守ることの出来る者の発する凛とした正しい声なのであった。
 母親の声に、子供達が大きく叫び声をあげる。

「ねぇ、パパはぁ!?」
「パパはお仕事終わってからじぃじのおうちに来るから、ちゃんと待ってようね」
「うん! あんずね、じぃじとばぁばと、パパにクッキー作る!」
「ママも一緒に手伝うからね。ゆうたも一緒に作る?」
「つっくるぅ! こーんなでっかいクッキー、ばぁばに作る!」
「そんなに大きなクッキー、ばぁばのお口に入るかなぁ?」

 今を正しく生きている親子の姿は、笑い声の足跡をつけながら紫色の奥へ奥へと遠く小さく過ぎて行く。

 もっとまともに生きていたなら、もっと隣人を愛せたなら、ギャンブルを止められたなら、あんな風な幸せな声が俺にも聞こえたのだろうか。まさか――――。
 鶴巻は自転車を止め、遠ざかる親子を振り返った。 

 遠く小さく消えて行く姿を見詰めている内に夕刻は漆黒へと色を変え、普段心中で人をこき下ろすことしか能のない鶴巻であったが、この時ばかりは何を思う訳でもなく、ただただ無の境地となって立ち止まったまま、その場に突っ立っていることしか出来なかった。
 やがて見えなくなった親子に自らが破壊した家族の過去をぼんやりと重ね合わせてみたものの、やはり何も感慨深いものは浮かんでは来なかった。
 まず真っ先に思い出さなければならない息子の名前さえ、すぐに思い出せなかったのである。

 はっきりと感じているのは、幾ら引っ掻き回してみても何の生物も生息していない池同然の虚無だった。その瞬間に、鶴巻は自身の心の中で色の濃い「死」を感じ取った。
 それは風景の死であり、日常の死であり、感情と感覚の死なのであった。とっくの昔に死んだそれらは既に腐り果てて肉さえ失い、風に晒され、雨に曝され、ばらけた骨の欠片へと姿を変えてしまっていたのである。
 だからこそ過ぎ去りし家族の姿に、俺はもう何も感じないのだと鶴巻は理解した。

 感傷で飯が食えるかってんだ馬鹿野郎。そう思い返して再び歩き始めると、横を通り過ぎて行った黒のワンボックスが十メートルほど先で急停車した。
 直感的に「警察か」と思った鶴巻であったが、逆方向へ逃げようと自転車へ跨ってみると、酩酊の為にバランスを崩して勢い良く真横に倒れてしまった。
 その間に黒いワンボックスから出て来た数人の男達に身体を羽交締めにされ、鶴巻はそのまま車内へと連れて行かれた。

 クソ、あのウンコ物流倉庫の連中め! この俺様の恩を仇で返しやがって! たかが電気を使ったくらいでガタガタ吐かすから社長の頭が禿げるんだ、馬鹿畜生めらが! と、心の中で叫んでみたものの、車内に入った途端にアイマスクを掛けられた。一度は手錠を掛けられた身であった故、掛けられたのが手錠ではないことに違和感を覚える。

「えっ……おい、あんたら何なんだ? 警察か、おい」
「うるせぇぞ。黙ってろ」

 明らかに警察官では無さそうなドスの効いた声色に、視覚を奪われている鶴巻は恐怖した。

「黙ってろって、何だこれは、俺はどうなるんだ!? えっ、やだぁ! 怖い、怖い! やだ、助けて!」
「おい、ドア開けられないようにしとけ」
「はい」

 ガタガタと音がして、強い力で身体を抑えられるのを感じると、腕と足に結束バンドを巻かれた。さらにその上からガムテープをぐるぐると巻かれるのを感じ取る。最後には口にまでガムテープが巻かれてまるで芋虫のような状態になったが、車は止まる気配がなく、そのまま一時間以上も走り続けた。

「おい、降りるぞ」

 車が停まり、アイマスクと口元のガムテープを外されると、連れて行かれた先は何処かも分からない山に囲まれた川岸だった。よほど田舎なのだろうか、澄んだ冬の空には無数の星が瞬いているのが老眼の鶴巻にでも確認が出来た。
 訳が分からぬまま恐怖を覚えながら車を降りると、真っ暗闇の奥の方から川の音に混じって男の声が聞こえて来る。

「おお、ご苦労さん。やっと連れて来たか。足のバンドだけ外してやってくれや」
「うっす。やらせて頂きます」

 まだ若い男に口元と足のガムテープとバンドを外されながら、鶴巻は暗闇の奥から聞こえた声に耳なじみがあることに気が付いた。激しく訛り腐ったあの声、何処かで聞いた覚えがある。

「おい、今度は何処まで逃げた? 中山か? 大井か? それとも、船橋か?」
「え……」

 呆気にとられた鶴巻が答えられずにいると、ドライバーをしていた眉毛のない大柄な男に首を締め上げられた。

「テメェ、何黙ってんだよ! 親父が聞いてっぺな! ナメてんのかゴラァ!」
「な、なんですか急に、警察を呼びます! すぐにでも!」

 鶴巻が抵抗を見せようとすると、暗闇の奥から「何発か好きにやっていいど」と声がする。 
 その声が終わらないうちに、大柄男の巨大な拳が鶴巻の顔面に真っ正面からめり込み、脂で曇った眼鏡を弾き飛ばした。
 両の鼻から噴出した血液がボロボロの釣りベストにダラダラと零れ落ちるが、暗闇に目が慣れておらず、どれほど出血しているのか鶴巻にはわからなかった。そして、確実に鼻が折れたであろう激しい痛みに襲われてみると、声さえ出せないことを思い知ったのである。

 暗闇の奥の足音が一歩、また一歩と砂利を踏みながら近付いて来ると、周りの人間は鶴巻が逃げないように囲み始める。

「まっさかなぁ、ギャンブルで金溶かした挙句よぉ、俺の財布まで盗むんだもんなぁ」
「どっ、どうして……えっ……」
「え、じゃねぇっぺや。おい、クズ。なんで俺の財布盗った?」

 鶴巻は愕然とした。目の前にやって来たのはダークスーツに身を包んだ広瀬で、その目も口調もドスを効かせた本筋のそれにすっかり豹変していたのである。

「ひ、ヒロちゃん……うちのおふくろが、その……倒れ」

 そう言い掛けると、今度は広瀬の強烈なヤクザキックがみぞおちに飛んで来た。真正面からまともに食らってしまい、息が出来なくなる。
 暴力に訴えやがて、この田舎ヤクザめ。これじゃまるで本物のヤクザじゃないか。いや、待て。こいつ、まさか。そう思いながら広瀬を見上げると、漆黒の闇の中で胸ポケットから取り出したメモを読み上げ出した。

「鶴巻ハツ、八十三歳。老人ホーム、希望の丘に入居中。今朝の朝食はブルーベリージャムのパン、コンソメスープ……ほぅ、ババアの癖にずいぶんシャレたもん食ってんだねぇ。後で死に掛けでも入れる保険に入ってもらわねぇとなぁ。疎遠になってるとは言えよぉ、この馬鹿息子に取られた分、利息も含めてきっちり回収しねぇとな」
「え……」
「え、じゃねぇっぺなぁ! こんなゴミクズ、股座から捻り出したババアにも責任あっぺ? それが道理ってもんだべなぁ。まだ死んでねぇなら責任取ってもらわねば。ったく、中絶しちまえば良かったんによ」
「ちょ、ヒロちゃん……待てよ」
「あ? ヒロちゃんだなんてよ、あんま気安く呼ばねぇ方が良いんでねぇの?」
「いや、だって……俺とあんたは五分だって、「鶴ちゃん」「ヒロちゃん」で行こうって、そう言ってくれたじゃないか……」

 頼む。頼むから、勘弁してくれ。俺が五分で行こうって言ったんじゃない。なぜなら、俺の方が遥かに有能で高学歴で犯罪歴もないからだ。お願いだから目を覚ましてくれ。それがこの世の真実なんだ。おまえが五分の付き合いだなんだ、クソヤクザ文化を俺に持ち掛けたせいで色々と面倒なことになったんじゃないか。そしたら、おまえに責任があるのは当然だ。だからお願いだ、目を覚まして俺を見逃してくれ……そして、頭でも打って即日俺の恥を忘れてくれ……。
 と、鶴巻はこの状況下でも詫びる意識を持とうとすらしていなかった。

「はぁ? 何で俺とオメが五分なんだ? あんま馬鹿抜かしてっと殺すど」
「え……」
「カタギはな、もう辞めだ。性に合わねぇんだ。オメのおかげで、頼ったはずの警察から電話掛かって来てな、あんまりガタガタ文句吐かすからよ、お望み通りヤー公に戻ってやったよ。俺の家族はよ、やっぱり血で繋がってねぇ、絆で繋がった奴らだったよ。おかげさまで、今の俺はオメが大っ嫌い! な、"東北ヤクザゴキブリ"だ」

 何故、この俺の心中がバレたんだ? そうだ、その通りおまえは立派な東北ヤクザゴキブリだ。しっかりと反社会的に活動し、こうして今も俺を貶め、辱めるという重大犯罪行為に及んでいるではないか。しかし、心の中で罵倒した言葉が何故こいつにバレているんだ? いや、そんなはずはない。よし、しらばっくれよう。

「ちょっと……うーむ。トーホクゴキブリとは、事情が分からんな」
「ボストンバッグの中にな、ハズレ馬券とメモ帳があったっけな」
「…………」

 クソっ、しまった。アパートに置き去りにしたままのボストンバッグの中に手帳をしまいっ放しだった。あれには広瀬へのストレスがびっしりと書き込まれていたのだ。バレてしまったか……うん? いやいや、人のバッグを漁るだなんて……なんて性根の浅ましいクソヤクザなんだ。俺の苦しみが少しでも分かったか、この脳足りんめが。

 と、自分は人様の財布を盗んでおきながら一方的に相手を罵ることを止めようとしないのである。しかし、稼業に戻った広瀬のあまりの迫力に心の勢いは失速し、すぐにボロの出そうな嘘をあれこれと考え始める。

「……広瀬は東北ゴキブリだぁ水呑百姓だぁ、低学歴犯罪者だぁ書いてあったっけね。オメは俺のこと、そんな風に思ってたんだなぁ」
「違う! アレはほら、ヒロちゃんは素晴らしい後輩だって書いてる途中に、台所にゴキブリが出てたから、イライラしてさ、ついつい書いちゃったんだよ!」
「なぁんで東北のゴキブリがわざわざ埼玉の台所に遊び来るんだよ? オメ、ゴキブリと話でも出来んのか? オメの嘘はもう飽きた。第一、つまんねぇ。今から電話する所あっから、オメも出ろ。な?」

 そう言って広瀬が電話を掛けた先は井ノ瀬だった。恋人と部屋でのんびりと年末のバラエティ番組を見ながら談笑していた彼の携帯が鳴ると、目先だけでディスプレイを見て首を振った。

「ねぇ、卓司。出なくていいの?」
「うちのスタッフだよ。同居人に貯金も財布も盗まれた可哀想な人でさぁ、でもこの時間に掛かって来る電話なんてロクなもんじゃないだろうし」
「緊急かもしれないよ?」
「仕方ねぇなぁ……はい、もしもし?」

 彼女に諭されて電話を取った井ノ瀬であったが、その三秒後には早くも電話に出たことを後悔するのであった。

「もしもし? 井ノ瀬さん、電話をスピーカーにしてもらっても構わんですかねぇ? しっかり聞かせたい声があるんでねぇ」
「えっ……広瀬さん? あの、はい」

 電話から聞こえて来た広瀬の声はいつもの様子ではなく、まさに暴力団のそれだった。ドスが効いた声でそう言うものだから、井ノ瀬は自然と従ってしまったのだが、これが後悔をさらに加速させた。

「鶴巻のクソ馬鹿垂れですけどねぇ、自転車でふらふらしてる所をとっ捕まえたんで、ハートさんにはもう何も気にしないで頂いて大丈夫ですと伝えて欲しいんですよねぇ」
「え? あの、そこには鶴巻さんも一緒にいるんですか?」
「ええ、何発かもらっただけでビクビク怯えて震えてますわぁ!」

 如何にも「極悪」と言った声色の広瀬がそう言うと、悪そうな男達の笑い声も一緒になってスピーカーから聞こえて来る。その声に、井ノ瀬の彼女は小さな声で「警察……」と呟いたが、井ノ瀬は細目を最大限に大きく開き、首を横に振る。  

「オラァ! 他人様にご迷惑をお掛けした事を詫びろよ、ゴラァ! 地面に這いつくばるんだよ! おい、オモテ上げんじゃねぇ! マサ。足いっとけ、足」

 その直後、湿り気の全くない何かが折れる音と共に、ぎゃあーという鶴巻の悲鳴が年末の愛の巣であるはずの部屋中に響き渡る。その絶叫は年末のバラエティ番組の笑い声と決して混じる事のない声の交差をし始める。

「オラァ! 井ノ瀬さんに謝れや! 身体中穴だらけになりてぇのかテメェ!」
「ふぅ……ふぅ……あ……あの、本当に、ハート物流様、そして、え、営業担当の井ノ瀬様には、多大なるご迷惑をお掛けしまして、申し訳ありません、でした」
「鶴巻さん? 大丈夫ですか? 鶴巻さん?」

 井ノ瀬の問いかけに、パキッと乾いた音が小さく返り、再び鶴巻の絶叫が部屋にこだました。

「鶴巻さん? あの、鶴巻さん?」

 その声に応答はなく、代わりに広瀬の声がスピーカーから聞こえて来る。

「そんな訳で、まぁこんなクズでも許してやって下さいよ」
「あの……この後、鶴巻さんはどうなるんですか?」
「そりゃあこいつ次第なんじゃあないっスカねぇ。ギャハハハハハー!」

 まるで地獄の底から響いて来る笑い声だ。井ノ瀬はそう感じていると、電話はそのままプツリと切れた。
 その後は黙り込んだまま彼女とバラエティ番組を見続けたものの、くすりとも笑えないまま番組が終わった。

 鶴巻に対する追求、暴行は深夜にまで及んだ。顔中が腫れ上がり、歯はボロボロに欠け、右足の曲がった鶴巻にはいつものように悪態を吐くどころか、もう何の質問にも答える気力さえ残されてはいなかった。
 散々殴る蹴るの暴行を加えた広瀬達の表情は実に晴れ晴れとしたものであり、額に滲む汗さえもスポーツの後のように実に爽やかな所作で拭うのであった。

「おい、オメがこの後どうなるか俺達には分かんね。けどな、もしもこれから先、俺を見たとしたら俺に見つかる前にオメから逃げろ。でねぇと、今度の俺はオメを本当に殺しちまうからな」

 鶴巻の脂ぎった髪をワシ掴みにした広瀬が手を離すと、彼らは腕の結束バンドをさせたまま、少し離れた場所にある小さな橋へと連れて行った。

「この高さなら大丈夫だっぺや。おい、やれ」
「うっす!」

 高さおよそ三メートルほど下の川に投げ落とされた鶴巻であったが、深さがあった為にすぐに浮かび上がると、そのまま腕をバタバタさせながら下流へと流されて行った。
 彼らは笑いながら動画を撮ったり手を叩きながら下流に消えた鶴巻を見送ると、黒いワンボックスに乗り込んでその場を立ち去った。

 季節は巡り、次の夏がやって来た。

 ハート物流は新しい派遣会社を使うようになり、死んだような目をしながら庫内で働く中年派遣労働者の数を三人にまで増やすほど業績を伸ばしていた。

 井ノ瀬は派遣担当から外れ、持ち前の人懐っこさを武器にし、人事部へと出世を果たした。この秋には一児の父となる。

 カタギを諦めてヤクザに戻った広瀬は東北の繁華街の一角を任され、仲間を引き連れながらドスの効いた声を毎晩のように響かせている。

 こうして新しい季節が過ぎて行く中、埼玉県北の大型物流センターの庫内では右足を引き摺る派遣中年男が同じく派遣三十男に近付いて、こんな言葉を掛けている。

「あのさ、悪いんだけどちょっといいか?」
「え、はい。あの、俺なんかミスりましたか?」
「いや、違うんだよ。悪りぃんだけどさ、来週返すから三千円貸してくれないか?」
「いいっすけど……あ、すいません。おろないと手持ちがないんです、すいません……」
「じゃあ、明日でいいや。よろしく頼むよ」
「……あの」
「なんだよ」
「どうしても……明日じゃないとダメっすかね? 正直今月キツくって……」
「俺の方がキツイよ、この足見ろよ。馬鹿野郎」
「……はい」
「よろしく頼んだよ」

 畜生。若さしか取り柄のないボンクラのクソガキがよ、三千円くらい持って歩いてろよ馬鹿野郎。だからテメェはイカ臭い童貞面のまま三十になってもこんな糞馬鹿連中が吹き溜まる底辺倉庫でしか働けねぇんだ。どうせテメェに未来なんかねぇんだ、なら、残りの分を死ぬまで前途有望なこの俺に寄越しやがれってんだ。クソガキめ。 
 おまえの十年の価値は俺の一日分にも満たない事を知れ。

 そう思いつつ、ハート物流よりもかなり広い庫内を右足を引き摺りながら、男はゆっくりと歩き出すのであった。
 金の無心を受けた三十男は、翌日倉庫に姿を現すことはなかった。

【了】

第九話はこちら

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