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【小説】 骨枯らす風 【ショートショート】

 到着を知らせるチャイムが延々と続いているが、一分近く経っても目的の電車はホームへ姿を現さなかった。
 ぼんやりと立ち尽くす者が数人、電車がやって来るはずの下り方面に顔を向けている。
 その中には苛立って猿のような奇声を上げたり、また、会社に遅れた分の損害を無理矢理に勘定して騒ぎ立てる馬鹿もおらず、皆一様に大人しく電車の様子を伺っている風だった。

 それはこの時間が平日火曜の午後二時だから、ということが大いに関係しているのだろう。
 電車を待ち侘びる者は若者や主婦層が大半だが、その中に混じって中年男がこの平日真昼間に一人、電車を待っている。
 それが、私である。

 おまえは社会の何処からも欲されていないのだと知らしめるように、曇天の向こうから冷たく乾いた北風が強く吹いて来る。
 冷えた指先を擦ってみたものの、さして温かくはならない。熱を生まない指先に虚無を抱いたものの、小銭の百円玉一つ遣うのにも神経を尖らせる性分の為、誰に気を遣っているのか自分でも不明なのだが自動販売機へそっと近寄ってみる。
 ホット用の缶珈琲が欲しくなるが、値段が表示されたボタンを思い切り、唾を吐くつもりで睨みつける。

 そんなことをしても身体の何処かが温かくなる効果がある訳でも、無料で珈琲が出て来る訳でもあるまいが、そうすることで私は己の貧性から目を背けている。
 四六時中、何処へ行こうともずっとこの調子で、今日も私は経済苦の海をかろうじて沈まずに泳ぎ続けている。  

 人生を決める船がとんでもない泥舟だったと今更後悔をした所で、未来の選択肢が多かった過去には戻ることは出来ない。
 二十歳を過ぎてから就いた会社の業績は順調だった。仕事も大きな不満がある訳でもなかったが、私を見込んだという知人男性の誘いが、平坦な日常を送っていた私の尻に火をつけた。

「誰もが幸せで、誰もが当たり前に生きていける、そんな社会を作りたいんだ」

 知人男性は金坂という名で、会社近くの居酒屋でたまたまカウンター席が一緒になったことで世間話をしているうち、意気投合し、互いにプライベートの時間で頻繁に会うようになった。

 金坂は未来への野心に溢れていて、自分のことよりも社会の困窮についての話だとか、構造改革だとか、そんな難しい話ばかりする男だった。
 他人が聞いたら夢の見過ぎと言われそうな平和ボケし過ぎた眠くなるような話しでも、彼が熱を込めて話すので、私は金坂に尊敬の念さえ抱いていた。

 年齢は私より十は上であったが、バイタリティという面で見れば十分に若々しい男だった。

 金坂は父から譲り受けた会社を整理し、ある新規事業を始めた。
 グループホームだとか何だとか、とにかく老人の世話をする施設を作ったそうだった。
 その管理者として、金坂は私を選んだ。
 私はのうのうと平坦な道を何処までも進むつもりだったけれど、社会の役に立つならばと奮い立ち、会社を辞めて彼の営む施設の管理者として働くことを決意した。

 それから、十年と持たずに事業は失敗した。
 資金繰りがどうにも出来なくなり、結果、社会がどうのこうのご立派な御託を並べていた金坂は逃亡した。
 施設は閉鎖し、行き場を失くした私はただの無職中年となり、次の居場所も見つけられずに、ふらふらと平日昼間を彷徨い続けているのだ。

 ホームに延々と鳴り響いているチャイムは、顔を見せる気配すらない電車を呼んでいるようにも聞こえて来る。
 喧しいはずのチャイムに耳が慣れた辺りで、駅員のアナウンスによって鳴ることを止めた。

「現在、上り電車ですが、緊急停止信号を受信した為、〇〇駅との間にて停車をしております。お急ぎの所、大変申し訳ございませんが、もうしばらくお待ちください」

 昼間だというのに、立ち尽くすしかないホームでは寒風が肌に染み込んで行く。
 周りを見てみると、私と同じように立ち尽くしたまま電車を待っているのは母とまだ幼い子供連れが二組、化粧っ気のない頭のでかい中年女、そしてリュックを背負った学生風の男が三人と、老婆が同じく三人。 

 その誰もが怒りを露わにするどころか、電車が来ても来なくてもどちらでも良いといった表情で携帯電話の画面に目を落としたり、欠伸をしたり、母に絵本かアニメだかの話を聞かせるのに夢中になったりしている。
 その誰もが、不思議と寒がる様子を見せていなかった。ひょっとして、寒いと感じているのは私だけなのだろうか。
 そう思って携帯電話を開いて気温を見てみたが、それなりに低い温度には間違いなかった。

 金太郎飴のように何度も何度も駅員による同じ内容のアナウンスが入るが、その背後に混じって他の駅員達が忙しなく声を飛ばしているのが聞こえて来る。
 何かしらの事故でも起きたのだろうか。

 曇天の下。肌に染み込み骨さえ枯らす季節の冷たさを嫌ほど感じながら、嫌だと感じる自分のことは一向に嫌になる気配がないことに、心なしか自嘲気味になる。
 馬鹿の哲学。そんな言葉が、ふと頭を過ぎる。
 泥舟に乗ってしまった生き方に嫌気がさしただけであって、私はこの私自身に、まだ諦めもせず期待めいたものを持ち続けているのだろうか。

 駅のホームに立つ「普通」の人々は、一体どんな瞬間に自分という者に嫌気がさすのだろうかと気になった。
 何もせず、じっと一人で家にいる間なのか。誰かとの間に軋轢が生まれた瞬間か、それとも集団の中にいる時だろうか。
 スケジュール帳に予定がないとか、欲しかった飲み物と違う物を購入したとか、ひょっとしたらそれくらいで嫌気がさすのかもしれない。

 いや。そもそも、嫌気さえさしてないのかもしれない。
 私自身、他人様よりも妙に神経質な部分がある人間ではあるものの、己の存在を全て捨てたくなるほど強い拒絶というものを、経験したことがない気がするのだ。
 つまり、嫌気がさしたとは言えど平々凡々。平坦な道は、やはりどこまで行っても、進んでも、平坦なまま変わり映えなどしないのではないだろうか。

 文字通り死ぬほどの嫌気を味わえたらと、何故か私は切望めいた感情が湧くのを心の奥底に感じた。
 その途端にホームに響いた駅員のアナウンス、その声には力と焦りが入り混じっていた。

「先ほどの、えー、お伝えした上り電車ですが、点検の為、もうしばらくお時間が掛かるようです。乗客のみなさま、お急ぎの所、誠に申し訳ございません!」

 やはり、何かしらの事故でもあったのだろう。
 この様子だと、まだまだ電車は来そうにもない。ふと、家に引き返そうかと考えたが、何の為に外へ出たのかと思い直し、浮かんだ考えを掻き消した。

 ホームに立ったまま、片手はジャンパーのポケットに入れたまま何気なくメールを確認してみた。
 すると、一時間ほど前に例の金坂から久しぶりに連絡が入っていたことに気が付いた。

 数年ぶりに送られて来た文面には、私への短い詫びの言葉と、この世界と別れる旨の言葉が長々としたためられていた。
 読んでいて、途中で言葉が頭に入って来なくなった。

 金坂に、先を越された。

 そう思いながら、私は下り方面へ続く軌条を無心で眺め続けている。
 寒風は止むことなく、肌を刺し続けている。指先からゆっくり確実に、骨を伝い、やがて心を殺しに来るような荒い風の吹き方だ。
 上り電車が動くアナウンスはなく、やがて救急車のサイレンが遠くから勇み足で近寄る音だけが、辺り一帯に響き始める。


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