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死にたくない!殺される!逃げろ! 逃げるんだ! 「さとりをひらいた犬/ほんとうの自分に出会う物語」無料公開/第11話

主人に仕える勇敢な猟犬・ジョンが主人や仲間から離れ、「ほんとうの自分」「ほんとうの自由」を探しに、伝説の聖地・ハイランドを目指す物語。旅の途中、多くの冒険、いくつもの困難を乗り越えながら、仲間や師との出会いを通じて、聖地・ハイランドに導かれていく。そして、ついにハイランドへの到達を果たすことになるのだが、そこでジョンが見た景色とは…。

【第11話】


 マフィーたちと別れて二日たった。


 いま、僕の目の前に、大きな壁のようなベレン山が黒々とそびえ立っている。山は来る者を拒絶するかのように、鉛色の重苦しい気に包まれていた。
 ほんとうに、あの赤い魔獣がいるんだろうか…


「さて、ここから先は…」


 ふと視線を上げると、僕の視界の隅に巨大な楠(くすのき)が森の木々から突き出ていた。高さは五十メートルほどもあるだろうか、とてつもなく巨大な楠だ。まわりの木々がまるで雑草のように小さい。僕はその楠が手招きをしているように感じた。


 よし、まずはあそこへ行ってみよう!


 僕はそこに何が待っているかも考えずに、まるで火に引き寄せられる昆虫のように、巨大な楠へ向かって道なき道を歩き始めた。岩を越え、草を掻き分け、倒木を乗り越えながら楠へと近づいていく。楠へあと百メートルほどの距離に近づいたときだろうか、何とも言えぬ気配を感じて立ち止まった。


 こ…これは何?


 楠を中心とした空気が、暗く、重く、地面の中にめり込んでいるように感じた。背中にビリビリと電気が走った。


 何かいる…もしかして、『赤い魔獣』?


 全身の毛が、緊張でそそけ立った。


 心臓がバクバクと音を立て始め、足のさきっぽが冷たくなった。


 行くべきか、戻るべきか…?


 もう一度目を閉じて自分に聞いてみたが、答えは同じだった。
 「僕のエゴは逃げろと言っている。でも、僕の魂は行けと言っている」


 覚悟せい…


 コウザの言葉が、低く胸に響く。 


 風下に移動して身をかがめ、細心の注意を払って一足ずつ、そろり、そろり、と楠に近づいていった。楠に近づけば近づくほど、空気は重く、息が苦しくなってくる。まるで楠の周りだけ重力が何十倍にでも重くなっているみたいだ。


 「これが…これが“恐怖”…」


 大きなこぶのような節くれだった楠は、それ自体が巨大な生物のように周囲を威圧し、支配していた。真っ黒で巨大な幹から発する目に見えないエネルギーが、周囲を黒っぽい灰色に染めあげ、肝心の楠がよく見えない。


 勇気をふりしぼって一歩ずつ前に進む。足が重く、なかなか前に進まない。肺に鉄板が入ったように、息苦しい。やっと楠まで三十メートルほどの距離に来た。耳が詰まって鳥の声が聞こえなくなった。空気に押しつぶされそうになりながら、足を一生懸命踏ん張って、草の陰から楠を偵察した。


 楠以外は何も見えない。幹の太さはゆうに十メートルを超えている。なんて大きさなんだろう。そして幹の反対側に、何かとてつもない巨大な圧力を感じる。


 警戒レベルを最大に上げ、楠の幹をゆっくり静かに迂回しはじめた。しばらく回り込むと、幹の影からなにやら動物の毛が見えてきた。


 『赤い魔獣』!


 その赤黒い剛毛は、人間の弾丸をも跳ね返すと伝え聞いていた『赤い魔獣』の毛にそっくりだった。足がブルブルと震えだした。


 こ…殺される。


 勇気を出せ、勇気を出すんだ!


 勇気を振りしぼって、静かに幹の回り込みを続けた。
 数歩進むと、その動物の足が見えてきた。それはまぎれもなく、熊の足だった。しかも、それは見たことも聞いたこともないほどの、巨大な大きさだった。


 足に続き、大木のような太い腕と巨大で真っ黒な大爪、赤黒い剛毛に覆われた巨大な胴体が見えてきた。
 そして、ふと気づくと、僕はいつの間にか、この巨大な怪物の正面に立ってしまっていた。


 なんとそこで、僕の足はまるで呪文にかかったかのように、動かなくなってしまった。


 う…動けない…


 怪物の顔を見ると、目をつぶっている。寝ているのだろうか?


 い…いや、そんなはずはない。もうとっくにこちらの気配に気づいているはずだ。


 怪物の胸がゆっくりと上下していた。怪物は、そのゆったりとした動きと、ごうごうと重く響く呼吸の音だけで、この場を完全に制圧してしまっていた。


 う…動けない…


 足は凍りついたように、動きを止めてしまった。
 その時だった。まるで僕が自分の目の前に来るのを知っていたかのように、巨大な大熊がゆっくりと目を開けた。


 それは、真黒な穴だった。


 穴…
 穴…


 感情のない、真っ黒な穴。


 底なしの真っ黒な穴が、僕を吸い込もうとしていた。


 死…
 死ぬ!


 真っ赤な血しぶき、絶叫とともに真っ二つになって飛び散る馬や犬の肉塊、血で染まった大地…


 マフィーの言っていたことや、先輩の猟犬から聞いていた数々の恐ろしい光景が、頭の中で鮮明に映し出された。


 逃げろ! 逃げるんだ!


 しかし、足は凍りついたように動かない。大熊は真っ黒な穴の目で、僕を捉えている。


 頼む! 動いてくれ!


 動け!
 動いてくれ!


 必死になって足に念じる。すると、足は突然呪縛がとかれたように活力を取り戻した。


 やった、動くぞ!!!


 僕は大熊に背を向け、一目散に全速力で大熊から逃げ走った。


 死にたくない!


 追いつかれたら、殺される!
 早く! 早く! 早く離れるんだ!


 逃げろ!
 逃げろ!
 逃げるんだ!


 無我夢中で、走りに走った。


 どこをどのくらい走っただろうか、少し落ち着いたころ、振り返って見ると、楠はかなり小さくなっていた。幸いにも大熊の姿も見えず、気配も感じなかった。


 た…助かった…!


 僕は荒くなった呼吸を整えるまもなく、どかっと地面に腰を下ろした。


 「あれが、『赤い魔獣』…」


 安堵感と脱力感が僕を包み、どっと疲れが噴き出した。気づくと太陽が西に傾き始めていた。


 今日は、このあたりで休もう、ほんとうに大変な一日だった。
 あんなに恐かったのは生まれて初めてだ。ガルドスと向かい合ったときも、白帝と闘ったときも、あんな恐怖は感じなかった。彼らとは好敵手、そんな感じだった。


 でも、あの大熊は…


 自分とは全く別次元の存在、あっという間に虫のように踏みつぶされてしまう、異次元の存在感、けた違いの恐怖だった。


 真っ赤な夕日が壮大に山の木々を映し出していた。僕はその美しい景色を味わう余裕もなく、ぐっすりと深い眠りに落ちていった。


第12話へ続く。

僕の肺癌ステージ4からの生還体験記も、よろしければ。


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