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脳にも転移している可能性があります(『僕は、死なない。』第7話)

全身末期がんから生還してわかった
人生に奇跡を起こすサレンダーの法則

7 絶望と治験


 9月15日になった。

 今日は掛川医師の2回目の診察の日。前回は僕ひとりだったが、今回は妻や姉と3人で都内の大学病院に向かった。妻には僕の病状をきちんと理解してほしかったし、姉は妙にカンが鋭いところがあり、イザというときに頼りになった。予約時刻を2時間以上大幅に過ぎた頃、やっと名前を呼ばれて診察室に入った。

「今日は今後の治療のお話をしたいと思います」掛川医師は相変わらず眉間にシワを寄せ、気難しそうに言った。

「その前に、今日は妻と姉も来ていますので、もう一度僕の病気についてお話をしていただいてもよろしいでしょうか」僕が切り出した。

「はい、かしこまりました」掛川医師はうなずくと、前回僕に話した内容を丁寧に妻と姉に向かって説明し始めた。

「手術はできないんでしょうか? がんのあるところだけ取るとか……」姉が掛川医師に質問した。

「それはしないほうがいいでしょう。手術をすると体力が落ちます。今はその後の治療のために少しでも体力を維持しておくことが大事なのです。刀根さんの場合はリンパや骨にも転移していますから、手術をして患部を取っても、また別のところに腫瘍ができることが予想されます」

「そうなんですね」姉は納得したようだった。

「えー、刀根さんは残念ですが、4期ということになっていますので」

「抗がん剤しか治療の方法がないと言われましたが、本当にそうなんですか? 最新の治療法とかないんですか?」僕は聞いた。

「先日申し上げました通り、あれから刀根さんの遺伝子を調べさせていただきました。EGFRという遺伝子について調べましたが、えっと……、残念ながら陰性という結果が出ております」掛川医師は検査結果の書いてある紙を僕たち3人に見せた。そこにはよくわからない図とともにEGFR陰性という文字が書いてあった。

「従いまして、EGFRのほうに使える分子標的薬のイレッサは、刀根さんには使用することができません」

 イレッサ、使えないのか……。僕はネットでイレッサという分子標的薬が肺がんに効くことを調べていた。有望なその選択肢が今、一つ消えた。

「えっと、もう一つのなんでしたっけ、Aなんとかというほうはどうだったのですか?」

「はい、えー、まずEGFRは肺腺がん患者の約4割が持っているといわれている遺伝子なのですが、残念ながら刀根さんは適合しませんでした。次に調べますALKという遺伝子は持っている人が非常に少なく、肺腺がん患者の4%しかいないと言われています。非常に珍しい遺伝子です。残念ですが可能性は少ないと思ってください」掛川医師は諦めたように、暗くつぶやいた。

「4%……」僕の心の中で声がした。4%じゃ無理だな、絶対に持ってない。

「ALKは調べるのにお時間がかかります。検査は海外に依頼します。あと2週間ほどかかると思ってください。ですのでその結果が出るのを待たずに、まずは治療の方針を決めたいのです」

 どうせ無駄だけど、と彼の目が語っているように僕には感じられた。

「2週間、というと10月の頭にはわかるのですか?」

「ええ、その予定です」

「じゃあ、今のところの予定はどういう感じなのですか?」

「はい、来週の中頃には入院していただいて治療を始めたいと考えております」

「中頃、というと22、23日頃ですか? そんなにすぐなのですか?」

「はい、治療は早く始めたほうがいいと思います」

「このままだと、抗がん剤の治療になると言われましたが、抗がん剤って本当に効くのですか?」

「わかりません。やってみないとわかりません。肺がんは抗がん剤が効きにくい難しいがんなのです。お薬が効く可能性はおおよそ4割です」掛川医師は厳しい顔で言った。それは彼が今まで経験してきた過酷な治療を想像させるものだった。

「4割、というと6割は効かないということですか?」

「はい、残念ながらそうです。もし仮にお薬が効いたとしても、いずれ必ずがんが耐性を持ち、抗がん剤が効かなくなります。となると、次のお薬に変えていきます。そのお薬も効く確率は4割です」

「……」

 掛川医師の話を聞いているうちに、目の前が暗くなってきた。抗がん剤が効く可能性が4割で、それが効かなくなって薬を変えても、次の薬も効く可能性は4割。ということは、つまりだ、いずれ近い将来、抗がん剤が効かなくなって死ぬか、抗がん剤の副作用で死ぬか、どっちかしかないってことじゃないか。

「仮に最初のお薬が5カ月効いたとして、次のお薬が2カ月、その次が3カ月……残念ながら、そうやって延命していくしかないのです」掛川医師は僕から目を離すと、ふーっとため息をついた。それはがんに対する無力感を表す敗北宣言のように、僕には感じられた。

 全部足しても、1年にならないじゃんか。

「治らないのですか?」

「治りません」

 掛川医師はうつむいたまま、きっぱりと言い切った。きっと彼の言っていることは本当だろう、彼の経験の範囲では。

「今のところ、刀根さんの治療で使う予定の抗がん剤はアリムタというものか、シスプラチンというものを考えています」

「シスプラチン!」

 この抗がん剤の名前は知っていた。寺山先生の本にも出てきた薬だ。寺山先生の本によると髪は抜け、吐き気はすさまじく、身体は痩せ細っていく……そんな薬だった。いやだ、絶対にやりたくない。

「ただし、当院では製薬会社と協力して治験というものをやっております」

「治験……ですか?」

「はい、最新の治療なのですが、まだ保険診療が降りておりません。保険診療が降りるよう、たくさんのがん患者の皆様にこの治療に参加していただいて、実績を作っているのです。ご興味がありますか?」

「もちろんです」目の前に光が射し込んだ気がした。

「それでは、治験担当の医師に刀根さんのことを伝えますので、外の長椅子でお待ちください。治験の詳しいご説明はその医師から行ないます」

「あのー、セカンドオピニオンを取りたいと思っているのですが」

 僕はやはりまだ自分が肺がんステージ4ということを受け入れることはできなかった。他の病院でもう一度きちんと診断を受けないと、納得できなかった。

「かしこまりました。それでは診療情報提供書を書きますので、どの病院に行くのか教えていただけますか?」

 セカンドオピニオンを受ける際には病院からの依頼状が必要になる。そのときは担当医師が書類を書く決まりだった。

「はい、がん研有明病院と帯津三敬病院の2箇所を考えています。2通書いていただくことは可能ですか?」

「はい、かしこまりました。少しお時間がかかると思いますが、本日中に書きますので、外の長椅子でお待ちください」掛川医師はいやな顔一つせずに、淡々とそう言った。

 診察室から出て長椅子に座ってしばらくすると名前が呼ばれた。先ほどとは違う診察室に別の医師が待っていた。

「刀根さんですね、こんにちは。緒方と申します」医師は明るく自己紹介をした。

「えー、私が担当する治験の話をさせていただく前に、もう一度刀根さんの現状を診させてください」緒方医師はそう言うと、PC画面に僕のCT画像や頭部MRIの画像を映し出した。

「これ、肺ですね。ここに原発巣があります。これ自体はそれほど大きくありませんが、同じ左肺のリンパにも転移していますね」

 緒方医師はまるで電気製品の使い方を説明する販売員のように、にこやかに説明を始めた。妻と姉の表情が固くなった。

「えー、さらにですね、この右胸の小さい白い点、これとか、これとか、これもかな、おそらくこちらも転移でしょう。今は小さくても、いずれ大きくなると思われます」

「でも、僕には見分けがつかないんですけど」

「ほら、白い点の周りには血管がないでしょ、だからこれもがん細胞ですよ」

「そうなんですか……」

 妻が画面から目を背けた。

「で、これがあなたの頭部MRIです」

「掛川先生は頭には転移していないと言っていたのですが」

「いや、これとか、これなんかも先ほどと同じように、白い塊の周りに血管がありませんよね」

 緒方医師は僕の頭蓋骨の中身が写った画像をボールペンで指差した。

「おそらくこれも転移でしょう。脳にも転移している可能性があります」

 横で座っていてもわかるほど、妻が動揺しているのがわかった。

「はい、これ差し上げます」

 緒方医師は僕の頭部MRIの画像をA4にデカデカと印刷して僕に渡した。

 いらねえよ、そんなもん。

「で、私の勧めている治験はですね、免疫療法という最新の治療でして……」緒方医師は治験の方法とメリットをとうとうと語りだした。

「まだ保険診療は認められていませんが、治験に参加することで治療費は免除か減額になる可能性があります。それと、もちろん治療の効果も期待できると思います」

「そうなんですか」一瞬、光明が射した気がした。

「しかし、治験に参加しても、必ずしも免疫療法を受けられるとは限りません」

「どういうことですか?」

「治験では三つのグループに分かれます。まず免疫療法の治療をするグループ、二つ目は免疫療法と抗がん剤を併用するグループ、三つ目は通常の抗がん剤のみのグループです。どのグループになるかはわかりません。コンピューターでランダムに振り分けられます」

「じゃあ、必ずしも免疫療法の治療を受けられるわけではないんですね」

「ええ、そうです」

「うーん」

 僕は腕を組んでうつむいた。すかさず緒方医師が言った。

「刀根さん、どうせあなたは通常の抗がん剤での治療なのですから、少しでも治療の可能性が上がる治験に参加されたほうがいいと思いますが、いかがですか?」

 どうせ? どうせって言った? 

「ちょっと考えさせてください」

「わかりました。それでは、答えが出ましたら掛川医師へお伝えください。通常の医療であれば掛川医師が刀根さんの担当になりますが、もし治験を受けられるのであれば、私が刀根さんの担当をさせていただくことになります」

「わかりました」

 診察室を出て長椅子に座ると、妻が肩を震わせて泣き始めた。姉が妻の肩をそっと抱いた。

 くっそうー、僕の大事な人を泣かせやがって。・どうせ・って言ったな、・どうせあなたは・って言いやがったな。

 コンピューターでランダムに振り分けるだと? 人の命をなんだと思ってるんだ。人を実験動物みたいに扱いやがって。あの医師にとって僕は一つの数字かもしれない。でも、僕の命は一つきりなんだ。そんなサイコロみたいなものに自分の運命を任せられるか! 自分の運命は自分で切り開くんだ。僕の命は僕が決める。

 自分の命がとてつもなく軽く扱われたような気がした。僕の存在は実験動物の一つとしてしか扱われていないように感じた。人間としての尊厳を踏みにじられたように感じた。こんな気持ちでは治験への参加などとても無理だった。僕は治験に参加しないことを決めた。

次回、「8 運気を上げろ」へ続く



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