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論文紹介 19世紀の長い平和の後で英国海軍の戦術能力が大きく低下した理由

イギリス海軍はナポレオン戦争(1804~1815)を通じて数多くの戦闘に参加し、その能力の限界に挑戦し続けてきました。ホレーショ・ネルソンをはじめとするイギリスの海軍軍人は、戦闘の経験を積む中で、形式にとらわれた古典的な海軍戦術を放棄し、その代わりに柔軟性に富んだ戦術思想を探求するようになりました。

イギリス海軍では、戦闘間にそれぞれの艦艇の艦長が事前に定められた優先事項に基づいて状況を判断することが許容され、主動的に敵艦と交戦できるようになりました。まだ内燃機関が発明されていない時代にこのような戦闘指揮ができたことは驚くべきことであり、イギリス海軍の士官がいかに優れた操艦能力を持っていたのかを示唆しています。

しかし、イギリス海軍は1815年にナポレオン戦争が終結して以降、その能力を低下させていきました。歴史学者のアンドリュー・ゴードンは、その原因を19世紀の長い平和に求めています。

アンドリュー・ゴードン「長い平和と軍事の変遷:ヴィクトリア朝の英海軍」『歴史と戦略の本質:歴史の英知に学ぶ軍事文化』原書房、2011年、下巻5-42頁

この時代に海軍は大規模な海上戦闘が起こらず、現場で経験を積み上げることが難しくなりました。このような状況で海軍の士官が戦術能力を維持することは容易ではなかったとゴードンは考えています。より具体的に述べると、次の3つの要因がイギリス海軍の能力の低下に繋がったとされています。

「第一に、対称的な大国同士の海戦が存在しなくなったことである。海軍士官は帝国や海上決戦の勝利者というよりも、ますます帝国の現状の継承者、監視人となっていった。彼らの任務はいまや船団護衛や防御、そして強制行動に集中した。すなわち、それらは海上における軍事力の行使よりも、海上における権威の行使や力の誇示に関係した任務を内容としていた。第二に、以上のような論理に基づいて、海軍および士官たちは、今や旧来の環境の時代の時代錯誤的な要求よりも、新たな環境という時代の要請に適した基準によって、制度的にも個人的にも国家にとっての成功と有効性に関する認識というものを評価するようになったのである。第三の傾向は、言うまでもなく、工業化の到来が軍事における重大な革命を促したことで、イギリス海軍は19世紀を通じてますます、それを同化吸収し管理しなければならなくなったということである」

(ゴードン「長い平和な時代における軍事の変遷」12頁)

19世紀を通じてイギリス海軍は世界各地に部隊を派遣しており、多忙を極めていました。1820年から1900年までの間に235回の海外派兵が実施されたという調査結果も示されています(同上、14頁)。部隊が派兵された先でイギリス海軍はイギリス陸軍の部隊の展開を支援するための施設建設を支援することもありました。

1867年に始まったエチオピア帝国に対する遠征では、イギリス海軍は292隻の艦船を投入し、紅海の沿岸部に陸上部隊を揚陸させただけでなく、内陸部への前進を支援するための鉄道建設に必要な資材の輸送も引き受けました(同上、14-5頁)。これはイギリスの対外政策と陸軍戦略を支援する上で重要な成果でしたが、当時のイギリス海軍は海上において敵の脅威に悩まされることがなかったことは指摘しておかなければなりません。本格的な海上戦闘の経験を積むことはなかったのです。

海軍士官が伝統的な仕方で自らの功績を積み上げることが難しくなったことにより、その人事に重要な変化が生じてきました。それぞれの人物は実戦で能力が評価されることが減りました。多くの士官は海軍の上層部に気に入られ、あるいは王侯貴族との親密な関係を通じて、特定の王室御用艦に勤務することによって出世を図りました(同上、18頁)。そのような艦艇は砲術訓練よりも艦艇の見た目が重視されていました。

ゴードンの議論で興味深いのは、イギリス海軍省が各艦に対して年間で3回分しか塗料を供給していなかったという指摘です。通常、射撃訓練は多くの砲煙をまき散らし、艦艇の外見を汚すことになるので、実際には年間で5回から6回分の塗料が必要でした(同上)。イギリス海軍が平和な時代にいかに射撃訓練を軽視していたのかが示唆されています。イギリス海軍が砲術訓練の重要性を再認識するのは1890年代の末になってからであったとも指摘されています(同上、19頁)。

もう一つ忘れてはならないのが技術革新の影響です。1860年代に内燃機関を搭載した蒸気船が登場したことで、風の強さや方向に依存しない海上機動が可能となりました。この新しいテクノロジーは、才能ある若い士官を引き付けました。

フィリップ・ハワード・コロンブは、1874年版の教範の中で蒸気船を前提とした海軍の戦術の見直し主張し、「今や密集隊形のまま艦隊の速度を操作することが、海軍戦術家の主要目的として認められる」と断定しました(同上、24頁)。この時代の戦術家は、コロンブのような考え方を受け入れており、一定の形式に定められた艦隊運動に沿って戦術行動を体系化しようとしました。

このような経過を辿った後に、イギリス海軍は1901年以降にドイツ海軍が台頭する中で、久しく忘れていた大国間戦争のリスクに直面することになりました。この時期、「イギリス海軍は他に挑戦者がいない支配圏の中で安住し、関節が固まり動脈硬化を起こしていたが、今や巨大な戦略的で物理的、そして組織的な重圧に直面していた」とゴードンは手厳しく評価しています(同上、25頁)。

ドイツ海軍の脅威に対抗するため、1906年にイギリス海軍は連装主砲塔5基を搭載し、砲戦での火力優勢を追求した戦艦ドレッドノートを就役させましたが、一部の海軍士官は技術至上主義に支配されたイギリス海軍が戦闘の現実に関して「計画倒れに陥りつつある」という懸念を持つようになっていました(同上、26頁)。

デイヴィッド・ビーティーは、必ずしもこのグループに属していたとはいえませんが、ゴードンは技術至上主義に基づく形式的な海軍戦術の考え方に異議を唱えた人物として評価されています。1913年に第1巡洋戦艦戦隊司令官に就任したビーティーは「大海戦についての研究から」と題する覚書を戦隊内部で回覧させており、そこでは「巡洋戦艦を含む巡洋艦の艦長は任務の完遂のために、主動性や精神的能力、そして決断力や責任をとることにおいて傑出していなければならない。これらの資質を最大限に生かすためには、戦隊指揮官の把握した部隊の役割や任務についての明確な指示を、艦長たちに与えるべきである」と記されていました(同上、28-9頁)。

ビーティーの考え方は、当時のイギリス海軍で主流派の地位にあったジョン・ジェリコーには受け入れ難いものでした。ジェリコーは第一次世界大戦が勃発した1914年に大艦隊司令長官に補されましたが、彼は中央集権的、統制集約的な戦闘序列を発令し、各艦の行動を手旗信号、旗旒信号、無線信号によって統制しました(同上、34頁)。大艦隊は、ドイツ大洋艦隊を捕捉したならば、単縦陣で砲戦を挑み、火力で圧倒して撃滅することを目指していました(同上、35頁)。ゴードンは、ジェリコーは「愚かな男ではなかった」と評していますが、「あまりにも軍人でありすぎて、真の軍人にはなれない」というジョージ・バーナード・ショーの表現を借用しています(同上、34頁)。

1916年5月31日のユトランド沖海戦でジェリコーの大艦隊はドイツ艦隊を捕捉撃滅しようとしましたが、それは期待外れな結果に終わりました。ジェリコーの計画では、ドイツ艦隊と決定的交戦が行われるはずでしたが、ドイツ艦隊は消耗を回避しており、思い通りに戦闘は進みませんでした。時間が経過するにつれて日が暮れ、海上の視程は悪化していきました。ジェリコーは翌朝を待つことを決めましたが、6月1日の朝にはドイツ艦隊は退却していました(同上、35頁)。この戦闘を通じてジェリコーは67秒ごとに1回の速さで旗艦から発信される戦闘信号で大艦隊の行動を細かく統制していましたが、それは所望の戦果に結びつきませんでした(同上)。その後、ジェリコーは第一海軍卿に就任し、ビーティーが大艦隊司令長官に補されました。

ゴードンは、このようにビーティーとジェリコーを対比させていますが、この問題を二人の個性の対立という枠組みでは捉えていません。イギリス海軍の戦術能力の低下は、複合的な要因の結果であったというのが彼の主張です。平和な時代が長く続き、イギリス海軍は戦闘経験が豊富な人材の不足に直面するようになり、それに伴って人事制度には重大な変化が生じてきました。このことが、技術革新の時代にドクトリンの硬直化を招くことになったと考えられています。著者は最後に次のように述べています。

「1世紀におよぶ海上における平和のあと、イギリス艦隊が十分に有効な臨戦態勢の艦隊へと完全に復帰するためには、大規模な戦争と手痛い失敗(あるいは少なくとも大きな失望)を経験しなければならなかったのである。我々は、そのことを忘れるべきではない」

(同上、41頁)

見出し画像:HMS Warspite and Malaya

参考文献

Murray, W. and R. H. Snnerich, eds. (2006). The Past as Prologue the Importance of History to the Military Profession. Cambridge University Press.(ウィリアムソン・マーレー、リチャード・ハート・シンレイチ編、今村伸哉監訳『歴史と戦略の本質:歴史の英知に学ぶ軍事文化』原書房、2011年)

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