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論文紹介 朝鮮戦争とベトナム戦争で米軍が消耗戦を選んだ理由は何か?

消耗戦(attrition warfare)が望ましくないもの、非合理なものと見なされることが多い主な理由は、それを完遂するために負担しなければならない費用が耐え難いものであると考えられているためです。第一次世界大戦(1914~1918)の西部戦線で生起した消耗戦は多くの犠牲をもたらしたため、戦間期により少ない犠牲で、あるいは、より短い戦いで戦争目的を達成する方法が模索されるようになりました。このような論調は、第二次世界大戦以降も残っており、消耗戦全般を否定的に捉える見方が強まりましたが、それは一面的な見方にすぎません。

カーター・マルケイジアンは、この種の議論で消耗戦がひどく誤解されてきたことを問題視した研究者の一人です。戦争の歴史において多くの国々が消耗戦を遂行したことには、それぞれに政治的、軍事的理由があり、必ずしも非合理なことではありませんでした。このことを具体的に示すため、マルケイジアンは消耗戦に対する誤解を取り上げた上で、アメリカ軍が経験した二つの消耗戦の事例を分析しています。

Malkasian, C. (2004). Toward a better understanding of attrition: The Korean and Vietnam Wars. The Journal of Military History, 68(3), 911-942.(邦訳、カーター・マルケイジアン著、源田孝訳「消耗戦についてのよりよい理解に向けて:朝鮮戦争とヴェトナム戦争」『年報・戦略研究4』2006年、157-184頁)

現在の消耗戦に対する理解は、機動戦の提案者によって作られてきた部分が大きいといえます。そのため、消耗戦は機動戦より犠牲が大きく、大きな消耗を味方に強いる戦い方として解釈されてきました。例えば、エドワード・ルトワックの議論によれば、消耗戦では敵と同程度の損耗を受け入れなければならないとされています(160頁)。ジョン・ミアシャイマーは、消耗戦を遂行するためには、敵に対して物的資源で優位に立っていることが必要であると主張しています(同上)。

また、ルトワックは、消耗戦を遂行する主要な手段は火力であるとも述べており、機動は火力の運用を適当なものにするための手段として位置づけています(同上)。最後に、ポール・ハスの議論では、消耗戦は敵を殲滅することを目標にしており、戦力を使い果たすまで戦いを続けることが想定されていると述べられています(同上、161頁)。

マルケイジアンは、これらの見解に問題があるとしており、特に消耗戦の前提が必ずしも数的な優勢を前提にするわけではないこと、味方に消耗を強いる戦い方であるとは限らないことを示しています。第一の事例分析の対象となっているのが朝鮮戦争(1950~1953)です。北朝鮮が韓国に侵攻したことで始まり、韓国軍を支援するためにアメリカ軍の部隊が派遣されました(朝鮮国連軍)。次第に戦況は改善し、アメリカ軍と韓国軍は北朝鮮に逆侵攻できるほど勢いを得ましたが、北朝鮮を支援するために中国が参戦したことによって、韓国軍とアメリカ軍は大きな損害を出し、総退却を強いられました。事態の急変を受けて、アメリカ政府は戦略を抜本的に見直す必要に迫られましたが、その結果として消耗戦が採用されることになりました。

1950年11月28日に開催されたアメリカの国家安全保障会議の記録によれば、当時のアメリカの首脳部は中国、ソ連との通常戦争に突入することに強い危機感を抱いており、これが戦略の選択を強く制限していました。この会議でジョージ・マーシャル国防長官は、韓国と北朝鮮の当初の国境に沿って防衛線を維持し、エスカレーションを回避することを提案しました(同上、163頁)。この提案はオマー・ブラッドレー統合参謀本部議長、ディーン・アチソン国務長官から支持されました(同上)。ハリー・トルーマン大統領はこの戦略の基本方針を受け入れ1950年12月8日の共同声明を通じて停戦交渉の開始を呼びかけています(同上)。

さらに、極東問題担当国務次官のディーン・ラスクはこの戦略構想の具体化を図り、12月21日に作成した覚書で、戦争の目的を北緯38度線の付近で停戦することと記し、12月の会議でその考えを説明しました(同上、164頁)。ラスクの提案とは「中国共産党から譲歩を得るには、相手に受け入れがたい代償を払わせ、その後、ある種の安定状態を受け入れさせることである」という内容であり、トルーマンはこれに基づいて中国との消耗戦を続けることを決定しました(同上)。

12月29日、朝鮮戦域で部隊の指揮をとっていたダグラス・マッカーサー司令官に対し、正式に大統領の命令が下達されました(同上)。その命令によってマッカーサーは全面戦争を回避しながらも、自軍の安全を考慮し、敵に可能な限り損害を与え続けるという任務が付与されました(同上)。この新しい任務を踏まえ、マッカーサーの指揮の下で作戦の転換に貢献したのが第8軍の指揮を引き継いだばかりだったマシュー・リッジウェイでした。リッジウェイは1951年1月11日に自軍の軍団長に対して防勢的消耗戦(attrition on the defensive)を発令し、一つの大隊、一つの中隊も失うことがあってはならないと厳命しました(同上、166-7頁)。その後、共産軍の攻勢が頓挫すると、リッジウェイはマッカーサーに攻勢的消耗戦への移行を提案し、限定的な攻勢作戦を計画しましたが、このときにも自軍が損害を出さないように注意を払いました(同上、167頁)。2月から4月にかけて、リッジウェイは数次にわたる作戦を遂行しましたが、いずれも味方の損耗を最小限に抑えながら、共産軍に損耗を与えた作戦でした(同上)。

その後、リッジウェイの指揮でアメリカ軍の消耗戦は1951年から1953年に至るまで続くことなりましたが、多くのアメリカ人は決定的な勝利を迅速に収めることを望んでいたため、リッジウェイの消耗戦には不満がありました。トルーマン大統領の任期が終わり、ドワイト・アイゼンハワー大統領が政権を発足させると、彼は段階的な紛争の拡大に賛成し、より決定的な戦果を収めようとしました。この方針の転換は最終的な停戦が達成される数か月前の時期に下されたため、戦場でそれが実行に移されることはありませんでしたが、消耗戦をめぐる政治的な支持を保つことの難しさを示すものとして興味深いと思います。

ベトナム戦争もアメリカ軍が経験した大規模な消耗戦の事例として取り上げられています。この戦争でアメリカは1965年から全面的に軍事的介入しましたが、当時のアメリカの首脳部もソ連や中国と全面戦争になることを避けたいという考慮があり、それが戦略の選択肢を制限していました。アメリカは1960年代から軍事顧問団を南ベトナムに派遣しており、南ベトナム軍の対ゲリラ戦を支援し、治安の回復を図ろうとしてきました。しかし、南ベトナム軍だけでは治安を回復させるどころか、戦局の悪化を食い止めることさえできないことが分かっていました(同上)。1964年から1965年にかけてアメリカ軍は大規模な航空攻撃を開始し、北ベトナムが南ベトナムのゲリラに武器や装備を移転させることを阻止しようとしましたが、これも所望の成果には繋がりませんでした(同上、170頁)。

リンドン・ジョンソン大統領は、南ベトナムの戦局を好転させるために、地上部隊を投入することは受け入れましたが、北ベトナムの政経中枢に航空攻撃を加えることや、地上部隊を侵攻させることは、ソ連や中国の軍事的介入を招くとして、避けるべきだと考えていました(同上、169頁)。そのため、アメリカ軍は南ベトナムの治安を回復するため、消極的な戦略を採用しており、これは飛び地戦略(enclave strategy)と呼ばれました。その基本的な構想としては、南ベトナムの人口密集地を保護するように設定された飛び地のような拠点をアメリカ軍の部隊で確保し、その間に南ベトナムの野戦軍が対ゲリラ戦を遂行するというものでした(同上、170-171頁)。

あくまでも南ベトナム軍の部隊が主体となるはずでしたが、現地で部隊は敗北を重ねており、1週間に1個の大隊を失うほどの速さで消耗しつつありました(同上、171頁)。1965年6月にアメリカ軍はゲリラの支配地域が南ベトナムの中央高原に及ぶことを認識し、それによって飛び地が分断される危険があることに懸念を深めるようになりました。このとき、ベトナム派遣軍のウィリアム・ウェストモーランド司令官は統合参謀本部に対し、より攻撃的な作戦行動をとる許可を求めました(同上)。

ウェストモーランドは、南ベトナム軍が崩壊の危機に瀕していることを深刻に受け止めており、直ちにゲリラに対して反撃を実施することが必要だと考えていました(同上)。ただし、ウェストモーランドはこの反撃で決定的な戦果が得られると考えていたわけではなく、敵のゲリラが決戦を避け、分散して行動していることは分かっていました。また、政治的理由から北ベトナムの基地を攻撃することができないことも理解していたので、消去法として南ベトナムの領域内部における消耗戦を選択することにしました。6月24日の統合参謀本部に対する報告においてウェストモーランドは「戦闘は、消耗戦になるでしょう。私は、迅速かつ望ましい形で戦争を終結させる公算を見い出し得ないのです」と述べています(同上、172頁)。ウェストモーランドは消耗戦を避けるとすれば、「紛争の拡大(extended conflict)」という観点から考えなければならないとも指摘していました。

1965年7月、戦況の現地調査のために派遣された統合参謀本部議長に対して、ウェストモーランドは自らの作戦計画を説明しました。まず、第一段階で南ベトナムの安全を確保し、ゲリラと北ベトナムの攻撃を阻止しします。第二段階で主動の地位を確立し、最重要地域における敵の戦力を消耗させることが構想されました。そして、第三段階で南ベトナム全域における敵を撃滅するという予定でした。この作戦構想を具体化するにあたって、ウェストモーランドはこの消耗戦が長期に及ぶことを想定した上で、可能な限り早期に終わらせるために、多数の部隊が必要になると主張しました(同上、173頁)。

1965年7月30日にジョンソンと会談したとき、ウェストモーランドは南ベトナムに44個の大隊を配備し、攻勢作戦を開始することを許可されました(同上、174頁)。ウェストモーランドの攻勢作戦はゲリラを積極的に索敵して撃滅するという方法がとられましたが、運用において特に重視したのは火力の優越であり、戦略爆撃機B-52を航空支援に多用しました(同上、174-5頁)。1965年10月から11月の戦闘では南ベトナムの中央高地の一角にあたるイア・ドラン渓谷に第1騎兵師団を投入し、ヘリコプターを大規模に使用した空中機動作戦を遂行しました(同上、175頁)。マルケイジアンは、リッジウェイとウェストモーランドの作戦で大きな違いとして、許容損害の大きさだったと指摘しています。イア・ドラン渓谷の戦闘に参加したアメリカ軍の部隊は大きな損害を出しており、特に2個の大隊は50%の人員を失ったほどでした(同上)。ウェストモーランドは、損害が甚大であったことは知っていましたが、それは消耗戦を短期間で終わらせるためであるとして正当化しました。1965年11月に彼は短期的に大きな損害が出たとしても、可能な限り早期に敵を撃滅できれば、それだけ戦争全体の犠牲者を減らすことができるという予想を表明していました(同上)。

1966年2月の会議にウェストモーランドは消耗戦の有効性が確認されたと主張し、より多くの敵を作戦に巻き込み、撃破していく方針を確認しました(同上、176頁)。ウェストモーランドの判断の根拠となっていたのは敵が味方より大きな損耗を出しているという損耗の交換比であり、敵は近い将来に損害に耐えられなくなり、いずれ屈服することになると予想していました。しかし、この予想は裏切られることになりました。1966年以降も北ベトナム軍の戦意が挫かれることはなく、南ベトナムのゲリラは活動を続けました。1968年に北ベトナム軍がゲリラと連携して実施したト攻勢は、軍事的には失敗しましたが、アメリカ国内でウェストモーランドが続けていた消耗戦の効果に対する疑念を高め、その作戦を中断させる効果がありました(同上、176頁)。

以上の事例分析から引き出される知見の一つは、消耗戦が必ずしも血みどろの戦闘を前提にした単純な戦い方ではなく、また、政治的な制約が複雑に組み合わさったときに選択された戦略であったということです。リッジウェイとウェストモーランドの消耗戦のスタイルは、どちらも火力の運用を重視してはいましたが、味方の消耗を抑制することを重視するか、それとも戦争の短期化を重視するかによって大きな違いが生じていました。ただ、消耗戦を遂行するにあたって、敵の殲滅を最初から考えていたわけではなく、むしろエスカレーションを回避しなければならなかったことは共通しています。敵を殲滅することは原理的に不可能な状態であり、時間をかけて敵に損害を与えながら妥協を引き出そうと努めていました。

「リッジウェイとウェストモーランドは、軍事的成功は達成できないと理解していた。消耗戦は1回の戦闘や作戦で敵を決定的に撃破するというよりは、戦力を削り取るような戦闘を繰り返し続けることであった。それに比べ、従来から存在していた消耗戦以外の戦略は、段階的で小規模の破壊には基づいてはいなかった」

(同上、178頁)

マルケイジアンの議論は消耗戦がどのような戦い方であるのかを理解する上で参考になるものだと思います。確かに機動戦は消耗戦よりも動的な戦力運用が要求されるため、その遂行には大きな難しさがあるといえます。しかし、だからといって消耗戦を機動戦の代替物のように捉えることは適切ではなく、それは戦略の次元から作戦の次元において、軍隊が選択可能な唯一の戦い方である場合があります。ちなみに、こうしたマルケイジアンの分析は『近代の消耗戦の歴史(A History Modern Wars of Attrition)』でより詳細に展開されています。機動戦の研究と併せて参照されるべき文献だと思います。

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