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なぜ戦間期の英国はドイツとの対立を避け、宥和に動いたのか? The Ultimate Enemy(1985)の紹介

1933年にアドルフ・ヒトラーが新政権を発足させてから、ドイツは将来の戦争を見据え、軍備を積極的に拡張しました。ただ、その進展状況に関する情報は注意深く隠されたので、ドイツの意図と能力を知ることは外国政府にとって簡単なことではありませんでした。イギリスも例外ではなく、当時のドイツの情報を取得することに苦戦していました。

カナダの歴史学者ウェズリー・ワーク(Wesley K. Wark)は、著作『究極の敵(The Ultimate Enemy)』(初版1985年)の中で戦間期のイギリスがドイツに対して宥和政策を選択した理由として、情報活動の失敗が関係していたことを明らかにしています。イギリスの情報活動に関するオフィシャル・ヒストリーとも見なされるハリー・ヒンズレーらの共著『第二次世界大戦におけるイギリスの情報活動(British Intelligence in the Second World War)』の成果を踏まえた研究であり、第二次世界大戦に至るまでの過程で、イギリスの情報活動がどのような問題を抱えていたのかを論じています。

Wark, W. K. (2010). The ultimate enemy: British intelligence and Nazi Germany, 1933-1939. Cornell University Press.

この著作で議論の対象とされているのは1933年から1939年までの6年間におけるイギリスの対ドイツ情報活動の状況です。イギリスの情報活動は第一次世界大戦の終結の後に財政的な理由から大幅に縮小されており、ドイツの内情を探るための能力が十分ではありませんでした。

例えば、イギリス海軍は1933年6月の時点でドイツのキールにある造船所に勤務していたエージェントを通じて、ドイツ海軍が複数の潜水艦を建造中であることを示す資料を入手しました(p. 133)。これはイギリス海軍の戦略に影響を及ぼす脅威と一部では評価されていましたが、同時に潜水艦の建造はまだ始まってさえいないはずであるという情報も存在していたので、海軍の内部では共通の認識が確立できず、議論は混乱していました。

このような状況が派生した背景として、当時のドイツ海軍が潜水艦部隊を増強するための第一歩として、排水量がわずか250トンの練習潜水艦を建造していたと著者は説明しています(pp. 133-134)。当時のイギリス海軍の情報活動では、こうした詳細を把握できておらず、ドイツ海軍が本気で潜水艦部隊の拡充を図ろうとしているのか確信が持てませんでした。1935年にイギリスがドイツにとって有利な条件で英独海軍協定を締結することになったのも、当時のイギリス海軍がドイツ海軍の建造計画について十分な情報を持っていなかったことが関係していたと著者は述べています(p. 134)。

ドイツは1935年にヴェルサイユ条約で定められた軍備制限から抜け出す再軍備宣言を発表しましたが、それと同時にドイツの意図は決して侵略的なものではないこと、あくまでも軍備の拡張の狙いは防衛的なものであることも宣伝していました。この時代のイギリスの情報活動に関して著者が指摘しているのは、当時のイギリスがドイツの平和的意図に関して先入観を持っていたために、その能力に関する情報も誤認した事例があったということです。

1930年代にドイツに長期滞在し、情報勤務に従事していたイギリスの元軍人にグラハム・クリスティーという人物がいます。彼はドイツ語に堪能であり、人的情報の開拓で独自の手腕を発揮していました(p. 52)。クリスティーがドイツ空軍の上層部に獲得したエージェントの一人は、ドイツ空軍が戦力の増強を進めていることを裏づける資料をイギリスに提供していましたが、1936年の時点で1938年のドイツ空軍の予定戦力は227個飛行隊、第一線に配備される航空機の総数は2,043機になるという詳細な数値も伝えていました(p. 53)。

この生産数は正確でしたが、クリスティーとそのエージェントの資料では、戦闘用航空機に対する練習機の比率が逆であったと著者は指摘しています(p. 53)。それでも、当時のイギリス空軍にとっては真剣に分析すべき要素が含まれる資料でした。それにもかかわらず、イギリス空軍では、情報源の信頼性を疑問視し、エージェントにこれら数値について自ら批判的に吟味するように求める質問を送りました(p. 54)。エージェントは、自分が提供した資料が信頼に足るものであると主張し、その信頼性を担保するため、当時のドイツ空軍がどのような航空機を開発していたのかを示す技術的詳細に関する追加の資料も送っています(pp. 54-55)。ただ、イギリス空軍は報告された数値がドイツが公式に承認している1,500機という戦力水準から乖離していたことを理由に、信頼できないという判断を維持しました。

結局、1936年9月末までイギリス空軍はドイツ空軍の戦力の規模が1937年4月までに1,500機を超えるという見積を出すことに強く抵抗し続けていました(p. 56)。しかし、手元に資料が集まるにつれて、間違っているのはドイツが公に出している数値であることが明らかになり、イギリス空軍は当初の判断を擁護できなくなりました。最終的にドイツ空軍が隣国のフランスを航空戦力で圧倒しようとしていることを認めざるを得なくなり、この時期からは戦争という最悪の事態を想定してドイツの軍事情報を評価する姿勢に変化していきました。

1936年以降の情報活動の特徴としては、イギリスがドイツの軍事的優越を強調することが挙げられています。こうした認識は、イギリスの宥和政策の根拠になっていました。1938年のミュンヘン会談において、イギリスがフランス、イタリアの共にドイツと交渉した上で、ドイツがこれ以上の領土要求を行わないなら、チェコスロバキアの領土であるズデーテン地方をドイツに割譲することに合意しています。これはイギリスがドイツとの戦争を軍事的な理由から避けるべきであるという認識を持っていたためでした。

ヒトラーと最初の首脳会談に臨む直前、チェンバレンは当時の軍事情勢について情報を提供するように軍部に要求しました。短期間で作成された評価では、もし1938年の段階でドイツが戦争を開始し、チェコスロバキアに侵攻すれば、「ドイツ軍はすぐにもチェコを侵略し、ジークフリート要塞線を超えてフランス軍は効果的な攻撃を開始できず、また連合国の航空戦力は航空戦の危険を冒すには、あまりにも戦力で劣勢である」と悲観的に予測されました(p. 207)。著者は、こうした見方は、ドイツの能力に関する過大に評価に基づいていたと考えています。結論では次のように述べられています。

「1936年以前は、ナチス・ドイツの軍事的な潜在力は過小評価されていた。この評価により、政府は自国の経済を集中的な再軍備に向けて移行しようとすることはなく(いずれにしても困難な決断ではあるが)、長期にわたった平和が続く可能性について検討するような動機もなかった。情報報告は続いていたが、1936年からミュンヘン危機までの数年には、決定的な陸上戦、航空戦を遂行するドイツ軍の当座の能力が過大に評価されたことで、政府はチェコスロバキアに対するドイツの実力行使を黙認することになった」

(p. 235)

著者は一連の分析を通じて、戦間期のイギリスの宥和政策を理解する上で、その根拠となっていた情報の詳細を知ることの意義を示しています。この研究成果を踏まえれば、イギリスの宥和政策の問題は情報活動の問題と密接な関係にあったことが分かります。情報活動の失敗だけが宥和政策の原因ではないと著者は述べていますが(p. 236)、それが1939年の第二次世界大戦の遠因の一つであったことは広く認識されるべきだろうと思います。

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