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なぜ抑止戦略の研究で評判が問題になるのか?

現代の軍隊が達成すべき任務の一つは、自国に脅威を及ぼす恐れがある他国に武力の行使を思いとどまらせる抑止(deterrence)です。過去の抑止論の研究では、自国が軍備を拡張し、軍事バランスを優位にすれば、他国の攻撃的な行動を抑止できると想定されたこともありましたが、現在ではこのような単純化は研究者に受け入れられていません。

パトリック・モーガン(Patrick M. Morgan)は、抑止論の研究者であり、早くから心理的要因が及ぼす影響の大きさを指摘してきた功績で知られています。彼は「抑止が成功するか、あるいは失敗するかは、潜在的な攻撃者の心境にかかっていることは明らかである。それゆえ、これが抑止理論の適切な出発点である。その目的は、潜在的な攻撃者が報復の脅威を真剣に受け止めるように仕向けられる方法とその条件を解明することである」と述べています(Morgan 1985: 125)。彼の議論で面白いのは、抑止される側の心理だけでなく、抑止する側の心理も考察していることです。

戦略の研究では、抑止を成功へと導く上で重要な課題はコミットメントを実施することであると考えられています。コミットメントを実施するということは、もし攻撃を受ければ、自国はこれを軍備でもって拒否し、あるいは報復する準備があることを伝え、そのためには犠牲が出ることもいとわないという覚悟があるということを相手の指導者に確信させることにより、その意思決定に影響を及ぼすことを意味します。モーガンが指摘しているように、自国が行ったコミットメントは、疑われ、信頼されない場合もあります(Ibid.: 130)。例えば、核兵器は絶大な威力を有する武器ですが、それ自体から抑止の効果が自動的に生じるわけではありません。核兵器の抑止効果は、抑止者のコミットメントが成功するかどうかにかかっています。

モーガンは、核兵器を使ったコミットメントには独特な難しさがあると指摘しています。それは第二次世界大戦の末期に使用されて以来、一度も実戦で使用された実績がないためです。大規模な犠牲が出ることを許容し、自国は必要が生じれば核戦争を遂行する覚悟であることを相手の指導者に信じさせることは、核兵器の開発や配備より繊細で、難しい仕事になります。

これは相手が自身のメッセージをどれほど真剣に受け取るかにかかっており、その受け取り方は、相手が自身についてどのように評価しているかにもかかっています。ここで参照されるのが、相手が持つ自身の評判(reputation)であり、この参照情報をどのように管理するかが抑止者にとって重要な課題となります。

「ある国家がコミットメントを最大限に実施したにもかかわらず、それが別の国から挑戦されたときに、どのような反応をとるのか非常に不確かであるとする。このような場合、より小規模な挑発に対する反応を通じて獲得した評判に大きな重要性が生じてくると思われる。自国の評判と遵守すべきコミットメントに関して、どのように認識しているのか、他国は確信を持てないとすれば、自国はそのイメージに絶えず気を配り、それを心配したくなるであろう」

(Ibid.: 135)

例えば、普段は温厚な人柄であるものの、ひとたび怒らせると、手が付けられなくなるほど暴れるという評判を集団の中で確立している個人は、潜在的な攻撃者に対して報復のコミットメントを実施することが容易になります。なぜなら、そのような評判があることが、コミットメントの信憑性を高めるためです。ただし、評判というのは捉えどころがないイメージであり、自国の評判を測定することも難しいといえます。

モーガンは、ここに注目して「心理的な関係としての抑止は、抑止者の行動と性格に派生するものとして取り扱わなければ十分に理解できない」と論じています(Ibid.: 136)。この視点は、アメリカがベトナム戦争に深く関与していった理由を理解する上で重要だとされています。

インドシナ戦争(1946~1954)でフランスの植民地支配が終わると、ベトナムは北部と南部に分断されることになりました(1954年ジュネーヴ協定)。共産主義体制の北ベトナムに対抗するため、アメリカは南ベトナムを支援しましたが、この対外政策は「どこであれ、共産主義が勝利することはアメリカの敗北を意味する」という当時のアメリカ政府の状況判断に基づくものでした(Ibid.: 138)。

当時のアメリカは西側のリーダーとして、数多くの同盟国と友好国に安全保障上のコミットメントを行っていたため、東側の勢力が拡大すると、国際社会におけるアメリカの評判が損なわれると考えていました。アメリカのケネディ大統領、ジョンソン大統領はいずれもアメリカが西側のリーダーとして、戦時に同盟国や友好国の防衛や支援を行うと約束し、抑止に信頼性を持たせるためのコミットメントを行わなければなりませんでした。彼らはそのための費用の負担がアメリカにとって大きいことに強い問題意識を持っていましたが、国際社会におけるアメリカの評判を損なうことなくコミットメントを軽減する方法を見出せずにいました(Ibid.: 139)。

「歴代の政権が南ベトナムに大きな意義を見出していたのは、そこで何かが起これば、別の場所でアメリカのコミットメントの信頼性に影響を及ぼすということに他ならなかった。これが戦争の公式な理由となった」

(Ibid.: 139)

アメリカ政府はベトナムという地域そのものに大きな重要性を認めていたわけではなく、それがアメリカの評判を損ない、結果としてアメリカのコミットメントを弱めることを防ごうとしていたといえます。評判を管理することに対する関心は、核戦略の分野でも見出すことができます。

モーガンはニクソン大統領の下で統合参謀本部議長に補任されたトーマス・モーラー海軍大将は、ソ連が戦略的に優位に見えるだけでも、我が国の外交政策と交渉の態勢が弱まる可能性があると指摘したことや、メルヴィン・レアード国防長官はソ連の核戦力に対してアメリカが数的な劣勢を認めることは「外交的にも政治的にも容認できない」と強調し、潜水艦発射弾道ミサイルであるトライデントの調達を推進したことが示されています。

このような考え方は、アメリカに特有のものではなく、ソ連は東側のリーダーとしての評判を維持することに関心を持っていたと考えられています。こうした知見から、戦略の研究で重要なことは、それぞれの国家が望ましいと考える評判には違いがあり、たとえ同盟関係を結ぶ二か国の間であっても、抑止の効果を得る上で好ましいと考える評判の内容について見解の違いが生じる場合もあるということだと分かります。そのような違いは、外交政策の伝統に由来するかもしれませんし、国内の政治状況、イデオロギー的な枠組み、指導者の性格や認知に由来するかもしれません。

参考文献

Jervis, R., Lebow, R. N., & Stein, J. G. (1985). Psychology and Deterrence. Johns Hopkins University Press.

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