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『花束みたいな恋をした』

 いい映画というものは、鑑賞直後のテンションの高まりから「これは自分の人生史上最高の作品だ…!」という感覚に陥りやすい。地下に存在するテアトル新宿から、光溢れる昼間の新宿の街へ抜け出たりすると、どうしてもその映画のおかげで視界がひらけたという気になってしまうが、実際は光の加減に過ぎない。

 『花束みたいな恋をした』については、敬愛する坂元裕二氏が脚本を書き下ろしており、それも菅田将暉と有村架純がいわば普通の大学生を演じるというのだから、これほど地に足ついたラブストーリーは未来永劫観られないのではないかと思ったので、情報解禁時から期待に期待を重ねていたのである。徐々に公開されていく情報、「またかとは思うよまたかだもん」「こういうコミュニケーションは頻繁にしたい方です」——まさに坂元裕二というセリフ群。普段目にする邦画のラブストーリーと一線を画すことはもはや確定していた。

 そして、いざ鑑賞。私は既に3回映画館に足を運んでおり、坂元裕二氏による脚本も購入済み。映画と同じく、できる限り地に足を付けて、考察の限りを尽くしたい。当然のようにバリバリネタバレなので、鑑賞後にお願いしますね。


pairsで出会ったら共通コミュニティ100超え

 麦くんと絹ちゃん、と親しみを込めてここでは呼称するが、彼らのベン図は信じられないほど被っていた。押井守(を知っているという、マナー)からはじまり、天竺鼠、現代国内純文学作家群、ラジオ、ceroの高城さんの阿佐ヶ谷のRoji。それに「ニワカ」への選民思想(ショーシャンクの空に、ゆず)。このベン図の被りから始まる恋愛については賛否あるが、何らあり得ない話ではないし、今をときめくマッチングアプリ、それもご評判の良いpairsやWITHでは、共通点から仲良くなろう、と推奨されている。共通のコミュニティを持たない男女が、共通点を軸に出会い心惹かれることは、ありふれたことであり、リアリズムに準った表現だ。


前提条件としての、「はじまりは、おわりのはじまり」

 晴れて恋人同士となった二人の、とてつもなく幸せな描写――もはや少女漫画原作映画を超えるほどの――がインサートされたのち、一転、絹ちゃんが追い続けていたブログ「恋愛生存率」の話題に移る。

「出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつか終わる。だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、その切なさを楽しむしかないのだ、と」

 そもそも冒頭のカフェのシーンで、二人の関係が終わることは自明である。この物語は「最高の恋愛」の着地点を見届けるもので、すべてのディズニー映画の先を描いたものなのだ。そういう物語を見たくない場合もある。私は『ビフォア・サンライズ』以降を見ていない。流行にあやかるなら、ドライフラワーのように閉じ込めておきたいのが恋愛というものなのかもしれない。しかし『花束みたいな恋をした』はそのタイトルの通り、恋愛が渡された時が一番美しく、いずれ枯れ、萎む花束のようなものであるという現実から、逃げない物語なのである。


麦くんの男性性の発露

 麦くんは就職を機に、ポップカルチャーとの距離が離れていく。それに伴って、絹ちゃんとの距離もまた。しかし変化したのはこれだけではない。次々と露になる旧来的な男性がもつ価値観に、絹ちゃんは確実に違和感を抱いていただろう。「働かなくていい、家にいればいい、好きなことをすればいい」という家父長的な価値観、映画の中身が入ってこない様子を見せたあとの「なにかしてほしいことがあったら言ってね」、そして極めつけは、ラストのファミレスのシーンである。

子供作ってさ、パパって呼んで。ママって呼んで。俺、想像できるもん。三人とか四人で手繋いで多摩川歩こうよ。ベビーカー押して高島屋行こうよ。ワンボックス買って、キャンプ行って、ディズニーランド行って。

 当初声も小さく、絵を描いていて、ガスタンクが好きで、趣味に没頭して、と中性的かつ社会的にみればそれこそAwesome City Clubに言わせるなら「アウトサイダー」だったかもしれない麦くん。絹ちゃんの就活の際にも日本社会のシステムを批判していた彼が、規範的な家族像を無意識に受け入れているのである。この大きな変化に、絹ちゃんもあきらめて飲み込まれそうになったが、羽田&水埜カップルの初々しさをみて、「私たちは」そうじゃないのだ、ということを悟り、二人は別れることができた。

 ここで言及しておきたいのは、決して上記に引用した一般的な家族像が悪いわけではないということである。これが幸せであることは尊重されるべきであり、この像そのものが批判されることは絶対に間違っている。ただ、この二人には、絹ちゃんにとっては、この像は違ったのである。そして世間を見渡しても、この像を望んでいない人は確かに存在していて、そういう人相手にそれを押し付けると、結婚が地獄となり、場合によっては「世間的にみれば幸せなはずなのになぜか離婚した」夫婦が生まれるということだ。そういった場合自分の気持ちを抑えてしまうのがたいていの場合女性であるということが、家父長制の抱える問題点の一つなのである。

 厄介なのはこの麦くんの変化が、何も悪気があってのことではなく、絹ちゃんのことを思うが故にこうなったとほほ断言できる点だ。彼は絹ちゃんと結婚したいと思った。ずっと一緒にいるために。新潟の、花火に重きをおく彼の実家が、家父長制についてリベラルかといわれると、そうではないだろう(実際、彼の父親は麦くんの絵を見て、仕送りを止めてしまった)。心のどこかで眠っていたそうした精神を、就職と絹ちゃんを守るためという責任感が目覚めさせた。彼ほど純文学に親しみ(女性作家も敬愛しているほどに)様々な価値観に触れていても、育ちで根付いた「男として生きる呪縛」に縛られるのだという、現代の20代が置かれている現在地は、あくまで価値観の移行の最中であるというこの世代ならではの難しさも、逃げることなく描かれている。


違うことを愛せたならば

 話を二人の恋愛的な内容に戻すが、二人が共有していたことは、二人とも好きなものが多かった。出会ってからも、付き合ってからも、そうである。しかしそのような関係は、どちらかがその「好き」から離れるだけで、簡単に危うくなってしまう。麦くんのもう一つの変化はその好きとの距離感であり、彼は本屋で「人生の勝算」を手に取ることになる。(実際、私も社会人になって一年、同期同士の研修(オンライン)で「読書が趣味」と言っている同期が本棚の写真を紹介していて、そのすべてがビジネス書及び自己啓発本だった)

 さて二人は、「違い」から目を逸らすことで、関係の維持に取り組んでいたように思う。それこそ本屋は別行動。そんな麦くんを見た絹ちゃんは、「たべるのがおそい」を抱えながらそっとレジへ向かう。「ゲームしてていいよ」と言いつつ一緒にはやらない。イヤホンをして、PCに向かう。「茄子の輝き」は読まない。とりあえず目立たぬように端に追いやったほこりも、たまってしまえば明らかな汚れとなるように、波風立てぬように過ごした日々は、積み重なって別れへと導いていく。

 私は、この二人が本当に幸せだったのは、お互いそれほど好きではないガスタンクを見に行ったり、ミイラ展に行ったりしていた瞬間なのかもしれないと思っている。この瞬間は、確実に相手にベクトルが向いている。「この人はどんなことが好きなんだろう」と相手にワクワクする瞬間。観覧車に乗ったことがないということ。5年間過ごしても知らないことは、ひょっとするとよそのカップルより多いのかもしれない。

 それでも、この二人はお互いを精一杯大事にしようとしてきたのである。私は「じゃあ結婚しようよ!」というひと悶着のあと、絹ちゃんが麦くんに紅茶を入れ、それを麦くんがちゃんと飲んでいるシーンが一番好きだ。ああ本当にお互いのことが大切なんだろうな、でも昔のようにはいかなくて、どうすれば...とずっと悩み続けているんだ、とわかる場面。「一緒にいたい」「同じでいたい」という思いが、これまた呪縛のように二人にはついて回ったのである。


祇園精舎の鐘の声

人間の営みは、無常である。「はじまりはおわりのはじまり」に象徴されるように、今作は時の流れにも様々なモチーフがちりばめられている。さんざん抱き合いまくったあとに食べたパンケーキが2019年にはタピオカに代わっており、二人は別れている。二人が部屋の内覧にきたとき、時の流れを感じながら、二人でベランダに座っていたフリーター時代。わずかに残った愛情を確かめるようにしたセックスの後。そして、二人暮らした部屋を出るとき。二人の変化にかかわらず、多摩川は絶えず流れ続けている。

 極めつけは二人が愛したポップカルチャーである。これはもはや偶然も重なっているが、今作で鳴らされる3つの音楽グループは、どれも2015年当時の姿をとどめていないグループたちだ。Awesome City Clubは2019年に主宰のマツザカタクミが脱退、2020年にはドラマーのユキエも脱退し現在は3人体制。二人がカラオケで歌ったきのこ帝国は活動休止。別れる日のカラオケで歌ったフレンズすら、これは映画製作後の話であるものの、2021年に入りコンポーザーのひろせひろせが活動を休止している。(しかしどのバンドも今も愛されている。Awesome City Clubに至っては今作のインスパイアソング『勿忘』がチャートを席捲しており、ミュージックステーション出演まで射止めた)

 何かを追いかけているときは、その状態が一生続くと思うものである。しかしすべてのことに終わりがある以上、人間に寿命がある以上、まさに「はじまりはおわりのはじまり」なのである。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

 花束は、いずれ枯れゆく。萎む。それでも人は花束を贈り、贈られ、喜ぶ。慈しむ。ラストシーン、Google ストリートビューに二人が残ったように、思い、そして2人が恋人であったという事実は残り続ける。歩んできた道を振り返るときというのがジュリオ・セザールにも我々にも等しく訪れるもので、その時微笑むことができる人生であれば良い。お互いの日々をたたえるように後ろ手を振り合った二人の背後には、その日まで歩んだ道のりが確かに存在しているのである。



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