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書くラジオ「本屋を何周もすると生きれるね!」

本屋を何周もしたら探していた本が見つかった。3週したら見つかった。ただただそれだけであるが、僕はこの経験は生きる上でとても役に立つんじゃないかと考えている。僕は自らに言い聞かすように、このことをラジオで話した、それを踏まえて文章にしてみた。是非、この前後でラジオも聴いてみて欲しい。

生きていると、出来ないことで悩むことがある。その出来なさはもうすでに出来てる人との比較によって、より出来ない方向へと進んでいき、出来ないと思い込み諦めてしまう。

僕は自分の人生を出来ないって言うだけで簡単に諦めかけたことがある。今無理なら無理だからいいや、もういいやと、ひたすらその場に佇んで、悩みを堂々巡りさせて、現在ではない暗い一点をひたすら覗いていた。そんな自分を知っているからこそ、こんな風にわざわざ繋げて考えているんだと思う。僕は些細な日常の出来事から諦めや死に対しての思考を探している。すごく広義的な意味合いで使うが、死にたいと思いたくないのだ。死んでほしくないのだ。

だから、したい(探してる)が、出来ないこと(見つからない本)も何周かしたら出来るようになることを改めて考えているし、話している。

それはもちろんできないこともある、それは、そもそも探してる本がその本屋にないことである、けど僕が言いたいのは、ほら、ないじゃないか?ということではなく、ほら、大体はあるじゃないか?の方である。この「大体ある」っていう感覚が重要で、大抵のことは何回かしたら大体できるという態度が生きる上で大切なんじゃないかと思うのである。

生きる上というと大袈裟かもしれないが、僕はそう捉えていて、この態度によって生きることに絶望せずにというか暗くならずに済むと思っている。22歳の時に出来なかったことや分からなかったことは、23歳、つまり23週目には出来てたり、分かってたりする。その週に無理でも、42周目には出来ていて、分かってる、みたいな。

出来ないこと(見つからない本)を探すたびに、得体の知れない不安を抱えたまま本屋を回ることになる。あれ?全然ない、探してる本あるのかな?あれ?全然出来ない、これ出来るのかな?と思いながら。

どうにか1周目を終える、やっぱりない、やっぱり出来ない、諦めそうになる。

けどそこで堪えてみて、もう1周してみる、またない、けど、またもう1週してみる、いつまでやればいいかは一旦考えない、考えるべきは、さっきの週目とは、微差かもしれないが、何が違って見えたかである。すると、さっき見たはずって所に本があったりする。

もう僕は歩くことにしよう。何周かしてみようと思う。本があったあの経験を思い出しながら、見つからないかもしれない、いや、そんなことない、大体ある。あの日、探していた3冊の本は3周目に全部見つかったじゃないか!その場を堂々巡りすることなく、本屋をグルグル回る。人生24周目である。無理に自らを変えるわけでもなく、探していた本を諦めるわけでもない、景色が変わることに気づくこと。気づくことが変わることになること。

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