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THEE MOVIE

 ドッドッターン、ドンタドンチーン!
 突然すみません。ライヴ前のドラムのサウンドチェックの音です。バスドラとスネアとクラッシュです。ちょっと文章を書き始めるためのウォーミングアップのつもりです。はい。では、いきますよ?

★★★

 私がこの映画(Thee Movie)を観たのは、約14年ぶりだ。前回観賞したのは2010年3月1日。忘れもしないので、日付ははっきり覚えている。前の晩は、文字通り一睡もしていなかった。その理由は、読み進めていただければお分かりになるかと思う。どうぞ少しだけお付き合いを。
 この映画は、ミッシェル・ガン・エレファント(以下「ミッシェル」)のラストライヴ(2003年10月11日)の模様を追ったものであるが、私は2003年当時、友人とともにこのラストライヴを現地へ観に行っている。その友人の名は、ここでは仮にKさんとしておこう。
 Kさんと私は、それぞれ別の大学に通っていたが、2002年、当時私が組んでいたバンドのメンバー募集を機に知り合った。彼女は私の1つ年下だった。彼女とは一度だけスタジオでバンド練習をしたが、ちょっと合わなかったような所もあり、結局、彼女はバンドに加入するには至らなかった。ただ、その後たまに私と連絡を取るようになり、ごくごくたまに一緒にライヴを観に行くというような関係となった。

★★★

 2003年に日本中を駆け巡ったミッシェル解散の報を、私はKさんと割とすぐに共有した。私にとっても彼女にとっても、ミッシェルは10代の頃から好んで聴いている、思い入れのあるバンドの1つだった。
 その年の8月。私たちは、10月にある彼らのラストライヴを観に行こうという話になった。当然ながらチケットの競争率は相当に高いものと容易に予想されたため、チケット発売日の発売開始時間である午前10時に、それぞれの自宅からそれぞれが予約の電話番号に電話をかけ続けるという作戦を取ることとした(当時はまだ、ネット予約というのはそこまで一般的ではなかった)。
 迎えたその日の朝、彼女の携帯電話の番号に発信をする。数コール後、Kさんがフラットなテンションで電話に出た。眠いのだろうか。訊くと、寝過ごしてはいけないという思いから、前の晩から徹夜していたとのことだった。私は、彼女は割と細かいことは気にしない性格だと思っていたので、意外な一面を見た気がした。
 そして、10時になった。その瞬間、私は自宅の固定電話から予約番号宛ての数字のボタンを押し、ひたすら電話をかける。かけ続ける。かけ続ける……。何分時間が経ったのだろう。チケットは予定枚数に到達し、あえなく完売となった。さすが、幕張メッセ級人気バンドとなったミッシェルのラストライヴだ。見事に撃沈した。……あっ、Kさんはどうだっただろうか。電話をかけてみる。やはりフラットなテンションで電話に出る。……吉報は得られなかった。……まあ、儘にならぬが浮世の常よ。ほかにも残念な思いをしている人たちは日本に数多いるのだ。私たちはすんなりと結果を受け入れた。

 その翌月だった。私も、組んでいたバンドをその時にはすでに抜けてしまっていたのだが、そのバンドのドラムの先輩から久々に連絡があった。先輩はミッシェルのラストライヴのチケットを取れたようである。しかも、何とチケットを4枚保有しており、うち2枚は先輩とそのパートナーさんが観にいく分だが、あと2枚、よかったら要る?とのことであった。
 待てば甘露の日和あり……。先輩! 勿論、欲しいです! ありがとうございます! 持つべきものは友(先輩)かな。思ってもみない幸運と、縁も半ば途絶えかけていた先輩からのありがたいご厚意に、うまく言い表せぬが、何か恩寵のようなものを感じた。ということで、私とKさんは、土壇場といえば土壇場だったのだろう、思いがけず LAST HEAVEN 031011 行きの片道(?)乗車券を手にすることとなった。

★★★

 2003年10月11日の夕刻。私とKさんは、幕張メッセにいた(先輩たちとは別々で観に行ったのだった)。外の空気は、どことなくまるで群青色のフィルターをかけられているかのようだった。入場口は、間もなく幕を開ける何か大きなフェスティヴァルにいざ行かんとするような人たちでごった返していた。私たちは入口のスタッフにチケットをもぎってもらい、引き換えに左手か右手かにピンク色の耐水リストバンドを巻き付けられた。入場エリアを進むごとに、場所場所でリストバンドの提示を求められた。
 そうして、やっと建物の中に入った。上着や荷物はコインロッカーに預け、私はグレゴリーのウェストポーチに小物をまとめてしまい、身軽になる。Kさんも軽装になり、髪を一つに縛り、タイトめの黒いカットソー姿になった。ライヴが始まる前にどのような会話をしただろう。期待と寂しさとが入り混じる独特な雰囲気の中で、やがて迫りくる、ラスト・ヘヴン、終わりの始まり。考えてみれば、ミッシェルは、その始まりからすでに終わりだった(デビュー曲は『世界の終わり』)。『ゲット・アップ・ルーシー』の歌詞で「終わりだね、終わりだね」と連呼するよりももっと前に。
 そうこうしているうちに、お馴染みの入場S.E.(ゴッドファーザー 愛のテーマ)の哀愁を帯びた音色が会場を覆い尽くした。それまで各々思い思いの時間を過ごしていた幾千もの人々が、このお馴染みの調べを合図に大歓声をステージに向けて送り、会場の熱気が否が応にも高まっていった。気づいたら、私とKさんは離れ離れになった(どうやら、Kさんは私のことを特に気にかけず、勝手に前のほうに行ってしまったようだった)。
 そして、メンバー4人がステージに登場した。先ほどまでよりも、歓声はより一層大きく上がった。スーツに身を包んだ、黒い4つの影たち。それぞれの楽器のサウンドチェックが始まる。ジャーン、ギャーン、ブーン、ドッドッターン、ドンタドンチーン!
 ……たまたまの巡りあわせなのか、幸運やら必然やら、ともかく私たちが迎えることとなった、終わりの始まり。そもそも、私とKさんとが知り合ったのも、ごく細い糸がたまたま繋がっただけの、量子力学的な物理法則の気まぐれのような偶然だったのだろうとも思う。
 オープニング曲のギターリフが刻まれる。あのどこかもの悲しくも線香花火のようにジリジリとする熱気を帯びたナンバー『ドロップ』だった。

★★★

 2010年3月1日の夜。地方都市の中心部に位置する、ある映画館の中。私は、映画『THEE MOVIE』のスクリーンをボーッと眺めていた。前々から、この日にこの映画を観に行く予定にしていたのだった。前の晩から一睡もしていない。そのためか、頭も体も、ちょっとふらふらしていた。
 オープニング曲『ドロップ』のイントロのギターがかき鳴らされた。雄たけびを上げる幾千の観衆たち。客席が映し出される。私とKさんは、勿論、夥しい数のオーディエンスの中、姿が映り込んではいなかったが、スクリーンの中のあの日、確かに、私とKさんはここにいたのだ。あの時の熱気と記憶が、このフィルムに真空パックされて、恒久に閉じた世界でそのまま保存されているようだった。
 スクリーンを眺める私の、何か曇りガラスのようにもやもやした頭の中で、ただただ立ち尽くす自分がいた。そのまま立ち尽くして、何かに押し出されるような衝動を感知しながら、それに抗する術もなく眼からとめどなくこぼれ出てきた。顔を歪めてひくついて泣いてしまった。ふらふらの身体で立ち尽くす、頭の中の自分と、一面に立ち込める遣る瀬なき情念。私にそのような感覚をもたらすものは何だろう。私に、今まさにこうしてこの文章を書かせている力は一体どこから来ているのだろう。

 時計の針を2003年10月11日に戻す。『ドロップ』のゆっとりとした三連符ですっかり温まった会場は、そのまま『ゲット・アップ・ルーシー』のイントロに突入。一気にヒートアップするフロア。聴衆による大きなうねり。ブレイクでカッティング気味に刻まれるアベフトシの十八番のギターリフ。待ってましたとばかりに沸き上がる我々オーディエンス。これはもはや、ただただ楽しいだけの時間だ。ラストライヴという悲しみ成分の含有量ゼロ。「終わりだね、終わりだね」という歌詞が全く感傷的に響かない(少なくとも当時の私にとっては)。
 その曲が終わり、間髪入れずに始まる『バードメン』。こうなってはもう、このじりじりと夜になってから始まった饗宴におけるヴォルテージの高揚は止められない。いきなり最高潮である(私の中では)。私がミッシェルで最も好きな曲は、『ゲット・アップ・ルーシー』かこの『バードメン』のいずれかであり、その甲乙はつけ難い。『チキン・ゾンビーズ』も、多分ミッシェルのアルバムの中で一番好きなものだ。なので、私はこの2曲をこのシチュエーションで聴くことができただけでも、この上ないぐらいの大いなる満足を感じた。
 広大な空間に隙間なく聴衆が埋まったこのビッグミーティングは、有り余るエネルギーと大量の汗を撒き散らしながら、ちょっと緩やかに、だいぶ柔らかにではあるが、かなり確実に、『世界の終わり』へと近づいていくのだった。

★★★

 2009年7月。アベフトシ急逝の報が日本のロックシーンに響き渡った。2004年3月に私が大学を卒業して以来、私がKさんと顔を合わせる機会は全くなく、年に1回ぐらいメールをするかしないか程度の繋がりであったが、この悲しい知らせを、私は割とすぐに彼女と共有した。ミッシェルの再結成は、この先多分ないのだろうとは思ってはいたけれども、本当にその可能性は、麗しい葉から夜露の一滴が落ちるように、淡い半透明の空気の奥へと消えていったのだった。
 ミッシェルは、私にとってどこか悲しげなバンドなのだが、アベの早逝に、私は多くのファンと同様に悲嘆に暮れ、冥福を祈ったのだった。寡黙ながらラストライヴでふと見せてくれたアベフトシの笑顔は、未だに私たちの脳裏を離れることがない。どうか安らかに眠ってくれますように……。

 アベの逝去を一つのきっかけとし、この映画『THE MOVIE』は製作され、公開されることとなった。私は、2010年3月1日にその映画を観に行くこととした。
 そして、映画を観に行く前日の2010年2月28日。東京時代の知人から私にたまたま連絡があった。その知人によれば、Kさんは前年に自殺したとのことだった。亡くなった正確な時期は分からないが、おそらく、2009年の8月か9月頃であったようだ。アベフトシの急死からさほど間が経っていない時期ではあるが、決してその後追いをしたわけではないらしい。享年は、彼女が敬愛していたミュージシャンの一人であるジャニス・ジョプリンと同じ、27歳だった。
 私は大学を卒業後、遠く離れた地に移り、彼女と疎遠になっていたこともあり、このことは全く寝耳に水のことであった。私と彼女は、ライヴに行く等で遊ぶ時はほぼ必ず2人きりであったし、地元も異なれば学校も異なり、バイト仲間等でもなく、つまり何ら同じコミュニティに属しておらず、私に訃報が伝わるルートがそもそもなかった。かかる具合であったため、私にとって彼女は、何の前触れもなく急にパッといなくなってしまったように感じられた。
 確かに、2人でライヴに行ったりしていたが、特別に親しかったのかと言われると、彼女にとって私よりも親しい人は何人もいただろう。2人きりで朝まで遊んだことも2度ほどあったことはあったが、だからどうというわけではない。
 ただ、私に何か力になれることがあったわけではなかったのかもしれないにせよ、何かほんの一言でも私に言ってくれれば……と思いはした。勿論、もしそうだったとしたら結果が一体どうなっていたのかなど、私になど分かるわけはないのだけれども……。
 いずれにせよ、それを知った時は、以前にはほとんど体験したことのないような類の衝撃を憶えた。私の頭の中で色々なことが大河を流れるように駆け巡り、物事をうまく整理することができなかった。そのような状況にあったがために、頭の中は興奮し、目は冴えわたり、何だかよく分からない気持ちのまま、その晩は一睡もすることができなかった。

 翌日の2010年3月1日は月曜日だった。徹夜明けのような状態で、そのまま仕事を終え、夕方から、前々から予定していたとおり、映画館へと向かった。やっぱり頭の中ではうまく整理ができていない。よく分からない。それでも、時は刻々と歩みを続ける。やがて、私が観に来たこの映画が幕を開ける。開演ブザーが鳴り、ぐるぐるする脳はそのままに、私はスクリーンに向かって真っ直ぐに対峙した。
 少しひんやりとした薄闇の中、私の視野の前方で映像がゆっくりと流れ出した。あの日の幕張メッセだ。そうして始まった、ミッシェルのラストライヴ。それからやがて流れ出した『ドロップ』。流れ出したのは、ドロップというオープニングナンバーもだし、私の眼からのそれもだった。
 頭の中の整理はできていないけれども、映像には映っていないけれども、あの大観衆の中に私はいた。Kさんもいた。そして、Kさんは今この世界にもういない。そのことが、もはや動かし得ぬ現実として、私の前に絶対的な確かさでもって立ちはだかったのだった。私にこのような悲哀をもたらすものは何だろう。今こうして私がこの文章を書いている時、私にそうさせているのは一体──。

エピローグ

 2024年2月16日。私は、14年ぶりにこの映画を観に来た。あの時と同じ映画館だった。あれから干支一廻り以上の時間が流れた分、私の両眼からもう温かな水としてのドロップが流れ落ちることはなかった。かといって、私の中から喪失感が完全に消えてしまったわけでは、決してないのだが。いすれにせよ、14年前よりはだいぶリラックスした心理状態で、私は映画館のシートに座っていた。そういえば、Kさんからタイ旅行のお土産として、タイ音楽のカセットテープと、鼻炎持ちの私を気遣ってかタイ製の点鼻スプレーを貰ったりしたな、なんてことを不意に思い出したりしながら。
 久々に観るこの思い出の光の束たちが、前方のスクリーン上で像を結ぶ。幕張メッセの中のむせかえらんばかりの熱気と、私の中の大切な記憶は、変わらずこのフィルムの中に、生き証人たる映像として綺麗にパッケージングされていた。変わったことといえば、Kさんの好きだったチバユウスケが(勿論、彼女はほかのメンバーも好きだったのだけれども)、そちら側に旅立って行ったということだった。やっぱりミッシェルは、どこか悲しい感情を抱かせるバンドである、私にとっては……。

 4人の痩せっぽちロッカー達が掻き鳴らすブルースを推進力に、歓喜や哀愁の中をジェットコースターのように勢いよく突き進み、大音量のグルーヴを渦巻かせてきた幕張メッセのこのライヴも、気づけばいよいよ大詰めを迎えていた。二度目のアンコールに応えた、本当に最後の最後のラストナンバー『世界の終わり』。燃え尽きんばかりに消耗した会場全体が、残された最後の力を振り絞っていた。
 ありったけの声を張り上げながら、その世界はぐわんとねじ曲がりながら揺れていた。途中でアベフトシのギターの弦も切れたし、チバユウスケも最後のヴォーカルパートのラストフレーズの一つ手前で、もう声が出なくなった。それでもチバは、最後のワンフレーズを、苦しい表情をしながらも何とか絞り出すようにして歌い切った。それはまるで、自らの肉体を削り取り、魂を引きちぎっているかのようだった。
 そしていよいよ、終わった。みんな文字通り、ボロボロに擦り切れていた。演者も観客も、何もかもが──。そう、私たちの、世界の終わりだ。

 ……それにしても、その世界は本当にそこで終わったのだろうか。置いてけぼりを喰い、結局一人で最後までライヴを観ていた私であったが、前方にようやく姿を捉えた……。いた……Kさんだ……。もうお互いエネルギーを消尽し、冷めやらぬ熱気を纏いながら全身汗まみれになっていた。
 おーい、どこ行ってたんだよー! 訊くと、人の波に揉まれたのもあって、私のことは特に気にかけず、先に一人で行ってしまったとのことだった。ズコッ!……何だよー。何も言い残さず行っちゃうなんてさ! まぁいいけど。
 いやー、凄かったね! 『世界の終わり』とかいってさ、何か本当に終わっちゃった感じだよねー。燃え尽きたよ、本当に。いやー、それにしても暑い暑い!
 でも、先に行っちゃうにしてもさ、何かほんの一言でも言ってくれれば良かったかなー。何の前触れもなく急にパッといなくなっちゃうんだから! 私に何か力になれることがあったわけではなかったのかもしれないけどさ。
 ……え? ああ、いやいや、何でもないよ。何でもない。ただ何かさ、……ただ何か

もう二度と会えないんじゃないかなって気がしただけだよ。
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 ところで、こんな文章を書かずにはいられないほどの表現欲求を私に把持させて、私を後ろから衝き動かすものは、一体何なのだろう。生と死とを決定的な仕方で分かつ越えられない境界線というのは、単なる物理的あるいは医学的、生命科学的なもの以外では、一体どこにあるのだろう。
 例えその人がもうこの世界に生命的存在としていなくなったとしても、その人の遺したものが、その人との何らかの思い出が、私に普段以上の力を発揮させ、何かが込められた文章を私に書かせるのであれば、それはその人が、個体を持った物体として存在するのとはまた違ったありようで、その人を思う私の創造力をドライヴさせる一つの作出因として、確かに世界に、この世界に、存在しているといえるのではないだろうか──。

 あの映画の中の世界では、私たちは同じ時間を生きている。その永遠に閉じた世界には、確かに終わりはあるのだろう。
 一方で、このぽっかりとした現実世界では、生と死とは不思議なミッシングリンクを共有している。生者は死者のために祈りを捧げ、死者は生者に不思議な恵みの息吹をもたらす。私が今こうしてこの文章を書き上げることができたのは、どこからどこまでが純粋に私のみの力によるものだと特定できるのだろう。
 Kさんを思い出す時、私は必ず何らかの表現欲求にとらわれ、それが今書き上げたこの文章として一旦は結実した。終わりとは、この世界においてはあくまでも、ある節目の1つに与えられた呼称であり、映画や音楽の中に存在する以外では、私たちの想像の中における1つの仮定(ないし過程)に過ぎない。それでも、いやむしろそれこそが、また別の世界の物語の始まりを、柔らかく新鮮な手触りでもって紡ぎ上げていくのだから、それは「そこで待ってる」と確かにいうことができるのだろう。

世界の終わりはそこで待ってると
思い出したように君は笑い出す

Thee Michelle Gun Elephant『世界の終わり』




 このテキストを、かけがえのない朋友──金坂今日子さんに捧げます。

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