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自分にしかできないことをするために『ChatGPTは神か悪魔か』

『ChatGPTは神か悪魔か』

世の中にはやらなくてはいけない煩わしいことがあまりにもたくさんある。どうしてこれは自分がやらなくてはいけないのか? と考えることがたびたびある。特に日本では年功序列、石の上にも三年だったりするので、これって本当に意味があるの? と誰もが思っていることが、今でも続いている。誰得でもないと誰もがわかっているのに、それが今も存在しているという謎。でも、その謎に切り込もうとする人は少ない。そこに踏み込んでしまうと次から次へとそういったものが見えてきてしまうから。

ブルシット・ジョブ(くそどうてもいい仕事)という言葉が一時期流行ったけど、みんな自分のやっていることの無意味さ、誰の役にも立たない、ということをわかっていながらそれをやっているということがある。一見、ものすごい矛盾で、そんなのやらなければいいの一言で終わるはずなのに、それがどんどん生まれてくるという世界。でも、なんでそんなことが起きてしまうかと考えると、結局、損得とか利害とか、そういうものをベースに考えてしまうからではないだろうか。結局それが仕事になる=お金になるのであれば、生活のためにやる。それはもう本当は生活のためというよりはただの損得である。それでは幸せになれないからみんな困っている。もうお金のためと割り切ってできるのであれば、それはそれで世の中のためになるか、もしくは、詐欺とかになるか。でも、目的は明確である。それにもならないもので、誰もがやりがいも感じなく、なんのためにあるのかもわからずにやっていること。これって、ある意味では詐欺とかよりも恐ろしい。そこには心がないから。もっと言えば魂がないから。その一見無みたいなものが、システムによって生み出されているということはとても恐ろしいことなのではないかと思う。ある意味で地獄である。そんなものを人間はつくってしまったのかと思うと、本当に恐ろしいことである。

話が大きくなってしまったが、どうしてそういうものが生まれてきたのか、ということを考えていくと、その大いなる矛盾が生まれる原因は当然あるし、その歪みみたいなものがあまりにも大きくなってしまったことはとても大きな問題であるだろう。だからこそ、AIみたいなものが大きく発達した、というよりもAIが発達するにはそういう過程が必要だったと言えるのかもしれない。そういう歪みがなければ、AIみたいなものを人は作ることができなかったのかもしれない。それはただ科学技術の発達というのではなく、もっと歴史や文化の大きな流れ。人はAIを使わない未来も選択できたはずなのに、そうにはならなかった、というような大きな流れ。その流れの中の一環だったのではないかとも感じられる。人が利便性を追求していく中で、なぜか生まれたブルシット・ジョブはそういう流れの副産物なのではないかとも考えられるのではないだろうか。今のAIへの流れを見ているとそんな印象を受ける。

また話はそれてしまったがChatGPTなんて使えるの? と思っていたのが、一回さわったらこれはやばいと感じた。というか、もう自分なんていらないじゃないか、と。まだ自分の完全な代わりになるにはもう少し時間がかかるけど、これまで自分がもっと簡単にできないかな、楽にならないかなと思っていたこと、それこそこんなことやるのは自分じゃなくていいと思っていたことがAIがやってくれるようになる未来が見えた。もうAIでいいじゃん。と。じゃあ、そこで自分の価値がなくなるかというとそうではない。むしろ、自分がやりたいこと、自分にできることに集中できる環境を作るために、AIを活用できないか、そう感じるようになった。

たしかにこれから色々な職業がAIに置き換わるだろうし、どんなところにももうAIなしでというのはあり得ない未来がもう近くまで来ている。たしかにAIに飲み込まれる未来、AIに使われる未来はあまり想像したくないし、そんな未来は来て欲しくはないのであるが、もうこの流れは止まらない。そうなったら、最大限にAIを生かすことを考えないといけない。その時に、AIにできることはAIにどんどんと任せていく。それは悪いことだろうか。もちろん、AIが完璧だなんて思わないし、まだまだ本当の意味で活用できるのはこれからだろう。でも、入り口は見えた。どのタイミングでその入り口をくぐるのかはその人次第だ。入り口が大きくなれば、嫌でも飲み込まれていく。でも自分から入ってその世界を楽しむこともできる。結局はその人次第だ。どんなにAIが発達しても、人の幸不幸を決めるのはその人でしかない。AIが神でも悪魔でも、その人の幸不幸はやはりその人が決めるしかない。

個人的にはもっとゆっくりゆっくりした世界の流れを感じながら生きていきたいのであるが、そのためにも、AIという流れに身を任せる必要が出てきたのではないかとも思う。流れに逆らうのが一番大変だ。どうしたら安心して生きられるのか、楽に生きられるのか、を考えると、流れというものに身を任せるのもその一つではないだろうか。

落合陽一氏の文章の中で、柳宗悦の話が出てくる。AIを活用することに柳宗悦は反対しないだろう、と。テクノ民藝、それも民藝だろうと言うだろうという話を聞いた時に、AIというとんでもない速くて大きく見えるものもまたわれわれの一部なんだということに気がつく。ちゃんと観ることができれば、人類はやはりものすごくゆっくりした流れの中にあることを感じる。

まだ僕にはAIの可能性が十分にはわかってはいないけれども、でも、その流れを感じるし、その流れの中で生きていくしかない。柳宗悦が言った、無心の美、自然の美、健康の美。それをAIとともに感じられるのか。そう感じられる自分でいることができるかどうかにかかってくるのではないか、とも思える。

結局は自分次第というとそれまでなのであるが、でも、AIのようなそれこそ自分の分身のようなものがもうすぐできるというところに僕たちはいる。僕たちはその分身を見てどのように感じるだろうか。むしろ、分身である彼の方が、自分よりも優れていると感じた時に、人はどう思うだろうか。それも許せるだろうか。愛せるだろうか。きっと分かれ目はそこにあり、人はそれを超えていけるのではないだろうか。

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