マジ死ぬ!の話
友達と話していて、「キツかったときの話」になった。
大体が「今現在」ではない。ほとんどが中学や二十歳ぐらいである。
お返しに僕も僕のキツかったときの話をした。僕のキツかった時期は十二、十九、二十八歳ぐらいだった。
それにしても、好きなひとたちはけっこう『キツかったときの話』を持っている。
今現在キツイ!というひとには人ごとで申し訳ないが、『誰だって、キツイ時期がある』ということはほんのり自分を救う。あくまで「時期」なのだ。季節物であり、旬がある。その情勢は確実に変わる。万物は変形する。
それでいて、キツくなったときは、そこが勝負なんだというのも真理だ。
さらに突っ込むと、その「キツくなったところ」は他人に話すと、じつは一番面白いところだったりするということだ。ウケるのだ。
友人たちの『キツかった話』はまぁ、じつに面白い。興味深いことばかりだ。
みんな、そのハードルをもう越えている立場だから、笑いながら話せるのかもしれない。犯した過ちも「へぇー!」となる話ばかりだ。
彼らに共通することは、キツかったときに前線から逃げ出さなかったことだ。
だから面白いのだ。そのマニュアル外の処世術、サバイバル列伝はドキュメンタリーとして、聞く者を魅了する。
とりあえずやる気を無くしてもいいし、誤魔化してもいい。
もちろん休んでもいいし、諦めてもいい。
ただ、投げ出さなければいいのだ。
面白いやつというのは、誰のせいにもせず、ちゃんと自分の中で苦しんできたキャリアがある。大事なのは『キツイときに誤魔化しながらでも、前線に身体を残すこと』だ。
身体が残ってさえいれば、態勢を整えて持ち直すことができる。
だから、いっときの感情で投げ出して、大切なものを見失うのは危険だ。取り返しがつかないことにだってなる。身体が残っていなければ、態勢を整えることはできない。
自ら捨てたものは二度と返ってこない。大好きなひとたちは、みんな態勢を残す強さを持っていた。
身体を残して残して、もうダメだ、諦める!となったときも、そのギリギリまで残していた片手で、逆転した話もある。
その強さを持っている人は楽しいのだ。
前線に残る『強さ』というのは、適当に誤魔化す『弱さ』でもある。生き残る『強さ』というのは、結論を急がない『弱さ』でもある。
だけど、一見、弱く見えても『大切なものを失わない』という最大のミッションを貫徹するのは、やはり『強い』ひとなのだと思う。
大切なものがちゃんと、大切にされているブレなさを感じる。
そういう強さを持つひとが好きだし、憧れているし、なりたいとも思う。
考えても仕方ないし、考えすぎると首を吊ってしまうのでやめておくが、これから先も「キツイこと」が来るかもしれない。
「さすがにどうしようもないし、たぶんコレはもうむりかもしんないわ。誰が悪いわけじゃないけどさ」
というド級のキツイことがもし来たら、と考えただけで自信が目減りする。
でも、もし訪れても、僕はギリギリまで身体を残そうと思う。
いろんなことから逃げ回ってでも、身体さえ残していれば、カウンターが決まるときがある。そのカウンターが、大切なものを護る決め手になったりする。逃げるは恥だが役に立つのだ。
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