意味が無くても有る
曲を書いた。ギターの音色はもう一色だ。クリーンすら無い。全て同じアンプ設定、ギター1本。堂々と。「これを一人で作っているんだなぁこいつは。ベースもドラムも」と想像してみてほしい。相当泣ける。
こころがイカレるといくらでもメロディにたどり着ける。よく降りてくる、という表現があるが、そういうものはない。なんというか目的地はあるのだ。作曲とか作詞とかいうもは出だしがゼロだから錯覚しそうになるが、行きたいところはたしかにある。
イマの自分は、灯台があまりに明るいので行けてしまう感じだ。「イカレている」というのは輝きでもあるのだ。
錯覚の話な。
街を歩いていているだけでも、錯覚することがある。まず、世の中というものは、健常者によって成り立っているという思い込みだ。
今日7月13日の金曜日もおっさんは酒気を帯びて額を輝かせ、おばはんは喫茶店で誰それかの悪口に興じている。少年はスケボーで大通りを走り回り、青年は高架下でつまらない自作の曲を演奏している。
つまりパッと見ると街は健常者によって成り立っている。
もちろんそんなことはない。それは錯覚なのだ。病気のひと、ケガ人、既に死んでしまったひと、これらはしかるべきところに隔離されているのだ。死者は焼き場に、病人は病院に。
自分の場所を得て、ひっそりと過ごしている。そして彼らなりに社会に参加している。
僕も同じくだ。
まだ、どうしても足が動かなくて、家から出れない日がある。起き上がって進もうにも、気力が湧いてこないのだ。
夢もエグイ。これらが発症すると布団に寝っ転がったときの重量感が凄まじくなる。とてもじゃないが身体を持ち上げられない。
大リーガー級の物ぐさ野郎にも感じるだろうか。いや、そういう感覚ではないのだ。なんていうか、すべてが芯から萎えてしまっているような感じだ。
この類の症状がここ15年ぐらい周期的にやってくる。「元に戻れるのだろうか」と毎度不安になる。だけど戻れなかったためしはない。なに、借りを返すチャンスはきっとやってくる。
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