おとな

会えなくなる。変わってしまったから

人間を30年もやると「会いたい人に会う」がどんどん難しくなる。

生きていくと「毎日のように時間を共にしたひと」が増える。これは足し算なので減りようがない。

しかしそのひととの時間は永遠ではない。

ひとは離れてしまうし、自分もそのひとから離れてしまう。

季節変わって寒くなると「また会いたいなぁ」なんて思いが強くなる。もちろん会えない。

なんで会えないのか?と考える。なんでだろう。
なぜ同窓会に顔を出したくないのか。昔の場所には訪れたくても、なぜ昔のひとに関わりたくないのか。

きっと変わってしまったからだ。

変わってしまった「あのひと」に会うのが怖いのだ。そして変わってしまった僕を見せるのも、恐怖のあまり失禁しそうだ。

ひとは変わるし同じままなんかではいられない。子どもの頃の「成長」なんて生易しいものではない。それはもっとやるせなくて、どうしようもない「選択」の先にある深みだ。

人間をしばらくやっているなら、みんな何かしらに人生を賭けている。それは夢追い人だけじゃない。ニートでもフリーターでも正社員でも変わらない。

「生命」と「時間」は同義だ。時給も月給も命の切り売りだ。働いてなくたって、時間を「待ち」に捧げている。

「生きるための手段として何を選んだか」
「どうやって生きていくことにしたか」
「何を選んで何を選ばないことにしたのか」

『人生』というクソゲーは叶えることよりも諦めることのほうが多い。アレもコレも諦めることの連続でステージを進めていく。挫折という名の世界観で構成されているとしか思えない。

でもそれが悪いかというとそうでもない。案外悪くないのだ。

逆に数少ない「叶えたこと」を振り返るとどうだろう。少し微妙な気持ちになる。「叶ったから何だと言うのだ」というような、一抹のあっけなさがある。

むしろ大切なのは、大事なのは「叶うまでに何をして叶えたか」だった気がする。そして叶ったときに誰と喜び合ったかだった。

諦めることも同じだ。誰と泣くか、どれだけ泣くかだった。そしてそれは叶わなかったのに、振り返るとさほど悪い気がしないのだ。

今は「諦める」って悪くない、とすら思う。もちろん限界までやったならば、の話だが。


「敗北に慣れる」というと景気が悪そうなのだが、「負けても死なないやり方」みたいなのが分かってくる。成人してしばらく経つとつかみ出す。そして死ななければ負けではない。いくらでもやり直せる。

ステージを進めていくうちにひとは変わっていく。もう10代の原型をとどめていない人間になった。

そうなると、あの頃の誰かには会いたくてもやはり会えない。会おうと思えば会えるのだろうけど、なんていうか会わない方がいい気もする。それぐらいのデリカシーをもって人間というやつをやっていたいのだ。



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