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大草原の一夜

 一面に広がる大草原は、僕の鼻にふんわりとした柔らかな香りを届ける。空は透き通った水色をしており、そこにところどころ浮かぶ雲は白く、そのふかふかな感触が手に届くようだった。
 深い岩の谷間を抜けた僕たちは、乗っていた馬を降りた。足を下ろすと、草の生い茂った大地のふわりとした感触が、ブーツ越しにも感じられた。

「ここはまだ、生きている」

 叔父が大地に跪き、その草を手に取って語った。

「ええ……僕も、そう感じます」

 さらさらと、少し冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、僕はそう言った。

「父が生きていたら、きっとここを好きになったことでしょう」

 叔父は手にした草の一本をもぎ取り、その根についた土をもう片方の手で優しく撫でてこう言った。

「そうだな……ここは私たちの故郷にそっくりだ」

 僕たちはここ何年もの間、ずっと旅をしていた。故郷を出て、自分たちが暮らせる土地を探していたのだ。
 故郷は今や疲弊しきっていた。相次ぐ旱魃に水争い、開発は全て村を悪い方向へ導き、子どもはもう何年もの間、産まれていなかった。
 それでも、昔は緑あふれるいいところだったのだ、ということは叔父や父から何度も聞かされていた。僕にも微かに記憶がある。あの草のふんわりとした香りは、今でも僕の鼻に残っている。

「どれ、今日はここで一晩過ごそうか」

 叔父は馬から荷物を下ろしながらそう言った。僕は「はい」と短く返事をして、叔父が荷を下ろすのを手伝った。

 昼頃にこの大草原についたというのに、夜は瞬く間にやってきた。それまで、僕たちは何をしていたのか、あまり記憶がない。ただこのふかふかの大地に寝転がって、うとうとと寝ていたのかもしれない。空を眺めてあの白い雲の数を数えていたのかもしれない。それとも、もしかしたら、このどこまでも続く大地の彼方を眺めて、何が見えるか必死に目を凝らしていたのかもしれない。だけども、たとえそういうことをやっていたとしても、日が暮れる頃には、赤く輝く夕日と、それに照らされ暗い橙色に染まった草原の記憶しか、頭には残っていなかった。
 夕陽を背にして起き上がった叔父はこう言った。

「なあ、シャルフアン。俺はなあ、昔の記憶がもうほとんどないんだ……どうしてだかな……今残っているのは、おまえの親父と、こことよく似た草生茂る大地で駆け回ったということだけだ。でも、俺にはそれが残っているだけで満足なんだ」

 叔父の顔は、逆光で暗くなっており、よく見えなかった。だけども、僕にはそれがうつむきがちで、悲しそうに映っていることがよく分かった。

「テントを、立てよう」

 僕は叔父の顔を見ないようにして立ち上がり、荷物が置いてある、馬がいる方へと向かった。

「……エルアン……パドラン……ここの草は美味しいかい?」

 馬たちは、静かに、しかし夢中になってあたり一面生い茂っている草を食べていた。僕はその様子を見て、しゃがみ、自分の顔をエルアンの顔に近づけて、その鼻筋を撫でた。細長い鼻筋は、細かくて丈夫な毛に覆われて、ざらざらとした感触を僕の手に伝えた。
 ブルルッとパドランが鼻を鳴らした。振り向くと、パドランが草を食むのをやめ、僕のことをじっと見ていた。

「なに、おまえのことも撫でてやるよ。焼き餅を焼かずに待ってくれ」

 僕はエルアンの鼻頭をぽんと軽く叩くと立ち上がり、パドランの方へ近づいた。そして、エルアンにしたと同じく、その鼻筋をゆっくりと丁寧に撫でた。

「おまえたちも、ここが好きなんだね」

 僕がそう言うと、パドランはのんびりと瞳を閉じて、また開いた。夕日が、その目の中に小さく輝いている。
 僕は振り向いて、落ちゆく日を見た。橙色に揺れる日差しは、遠く向こうに見える丘に隠れ始めていた。風が、そよそよと、大地の草を揺らす。
 僕はパドランから手を離し、荷物の紐をほどき始めた。叔父は多分、しばらく動かないだろう。でも、それでいいんだ。この大地を心ゆくまで目一杯愉しむことが、今の僕たちには必要なのだから……。

 テントを建てるのは、一人でやるにはとても手間取った。それでも、なんとかあたり一面が真っ暗になる前に建て終わることができた。
 叔父はようやく立ち上がった。そして「すまんな」と一言だけ言うと、テントが入っていた荷物とは別の荷物を漁り、夕食の準備を始めた。

「いいよ、僕がやるよ」

「なに、こうしていた方がいいんだ。思い出や感傷に浸るのも、もうやめにしなきゃいけない。ここでいくら、黙って動かずに考えていたって、お前の親父は戻らないのだから」

 叔父は持っていた缶詰や調理器具などをひったくろうとする僕の手を振り払い、そそくさと食事の支度を始めた。

「俺はな、俺とおまえの親父はな、どうにかしてあの村を助けたかったんだ。世界からずっと置いてかれていたあの村をね。でも、追いつこうとすればするほど、世界は離れていくようだった。今や世界中のどこよりもひどい環境があそこに広がるというのに、誰も見向きもしない。俺たちは世界から見放された。こんなことなら、まだ世界を知らなかった、昔のあの頃に戻る方がましなのかもしれないな」

 鍋を並べ、火を起こしながら、叔父はそう語る。ぼうっと立ち上った火が、叔父の顔を赤く照らした。

「でもな、いくら戻りたいと思っても、戻れないこともある。おまえの親父はもういないし、おまえの母親も戻ってこないだろう。それが俺にはとても寂しい。そう、寂しいんだ」

 大切なものを守ろうとして、大切なものを失った……僕の叔父はそういう人だった。それで、なんとかしてこの過ちに満ちた人生の穴埋めをしようとして始めたのが、この旅だった。
 叔父は僕を振り返った。

「なあ、シャルフアン……おまえは、ここで暮らせばいいよ……村の仲間と一緒にね」

 ぱちぱちと火が燃える音が耳に聞こえてくる。そして、さらさらとしたそよ風が。時は、進んでいるようで止まっていた。僕は、何も考えることができなかった。
 びゅっと吹いた突風で、ようやく僕は口を動かすことができるようになった。

「おまえはって……そしたら、叔父さんは……?」

「俺は……村へ戻って土地を再生させる……それが俺の罪の償い方だ」

 それきり、叔父は口を閉じてしまった。僕はただ、俯くしかなかった。

 食事は無言で終わり、僕たちは早々に眠りについた。だけども、まぶたは閉じたものの、僕は一向に眠りにつけない。何かを考えていたというわけではない。ただ純粋に眠れないのだ。
 僕は仕方なしに身体を起こした。胸までかけていた毛布がさらりと落ちる。隣で寝ている叔父は、静かに寝息を立てている。
 テントの入り口が、微かに開いていた。見ると、草がところどころ月に照らされて、揺れているのがわかる。少しだけ、湿ったような香りを鼻に感じた。草は、夜露に濡れていた。
 僕は立ち上がり、ゆっくりとテントの入り口へと向かった。そして右手で垂れ下がった布に触れ、入り口を少しずつ開けてみた。
 最初に感じたのは、鼻と頬をくすぐる冷たいそよ風。その次は、あたり一面に広がる、暗く、月夜に照らされた大草原。それはきらきらと、夜露の滴で波打つように明滅していた。そして遥か遠く、あの赤い日が沈んだ丘の上には、漆黒の空に小さな光がいくつも浮かんでいた。
 あたりは風が通る以外、何も聞こえることはなかった。だけども、僕の胸はなぜだかざわついていた。この静かな景色は、僕を招き入れるにはあまりに静かだった。
 ところが、不意に馬の蹄の音がした。見ると、右手の方から馬が二匹、エルアンとパドランが、互いに顔で戯れながら、愉快そうな足取りでこの草原を歩いている。その様子は、暗い中でも月明かりに照らされ、僕の目にしっかりと見えた。
 やがて、二匹は僕の正面まで来て、そこで身を寄せ合うようにして止まった。ときどき、ブルッと鼻息のようなものが聞こえてくる。でも、それがこの草原の空気を乱すことはなかった。草は相変わらずそよそよと揺れ、僕の胸は相変わらずざわざわと乱れていた。

「エルアン……? パドラン……?」

 僕はゆさゆさと静かに尻尾を振る二匹に囁いた。エルアンとパドランはその声に気づいたのか、僕の方を微かに振り向いた。
 だけども、こちらを見たのだとしたら、それは一瞬だった。二匹は、すぐさま背中を向け、再び愉快そうな足取りで、互いに戯れながら、どんどんどんどん僕から離れていった。

「ああ、君たちは、離れていってしまうんだね……君たちは、ここで生きていくんだね……」

 一瞬、エルアンとパドランの瞳が交互にきらりと光った。でも、二匹とはもうそれっきりだった。エルアンもパドランも今ではもう僕の声の届かないところまで行ってしまった。風だけが、まださらさらと、僕の顔を撫でている。
 僕はテントの外へ出た。顔を上げると、月は、眩しいほどにまで明るく輝いて、僕の視界を奪ってしまった。
 月光で盲しいた目を擦っていると、びゅっと僕の頬を薙ぎ払うように、風が吹いた。目を開けると、空は少しだけ、明るんでいた。
 エルアンも、パドランも、もういない。だけども朝になれば、叔父はこの地を立つだろう。叔父はそういう人だ。でも、僕も叔父についていこう。ここで暮らすには、月はあまりに眩しすぎて、僕の目はあまりに弱い。だから、あの月をしっかり見ることができるようになった頃、僕はここに戻ってこよう。夢と理想を手にするのは、それからでも遅くはないのだから。

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