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ゆらゆら自由に考える

今は調べればすぐに情報が出てくる時代だ。

それが正しい情報か、間違った情報かは置いといて、すぐに一つの答えに辿り着けるということに変わりはない。

こうなると、重要なのは、その答えにどうやって辿り着いたかという道筋ではなく、

いかに速く辿り着けるかというタイムアタックだ。

コスパやタイパという言葉が生まれるのも当然と言えば当然だ。

だけど、答えというゴールよりも、その道中のほうが大切なときもあるのではないかと僕は思う。

例えば、アニメやゲームの物語の楽しみ方の一つに考察というものがある。

あのシーンにはどういう意味が込められていたのか?
あのキャラクターの行動は何の意味があったのか?
などなど、物語をより深く楽しむための行いだ。

そして考察したからには、答えを知りたいと思うのも不思議ではない。

そんなとき、その作品を作った作者なり、公式なりが、そのシーンやキャラクターの意味を答えてくれるとファンとしてはうれしい限りだ。

ただ、その「公式の見解」を「ただ一つに正しい答え」にしてしまうのは少しもったいない気がする。

もし、スタジオジブリの作品で宮崎駿が
「このシーンはAという意味で作りました」

と、言ったとしても、
自分がBだと感じたのなら、Bでいいと思う。

そこで、なぜ自分はBと感じたのかを考えるのも、立派な考察だ。

考えを深めることで、
ああ、そう言えば自分は過去にこんなことがあったから、こう考えたのかもな、みたいに新しい発見があるかもしれない。

物語の意味など、作り手ですら決まった答えは無いと言う。

さっきの宮崎駿で言えば、
ナウシカを作る前と、作っている最中と、作った後で、作品に対する考えや意味づけは変わっていったと聞いたことがある。

だから、考察というのは「たった一つの決まった答え」を探すことではなく、
「現時点での答え」を探すことなのかもしれない。

今日出した答えはAかもしれないが、明日はBに変わるかもしれないし、10年後にはCにもDにもなっているかもしれない。

それでいいと思う。そしてその考え方は自分の人生においても同じことが言えると思う。

たった一つの正しい答えなど無いのだ。
ただ今、この瞬間はそう考えている。そしてそれは変わっていくこともある。その時はその時だ。

こんなふうに自分の人生を気楽に考察しながら生きていければいいのではないだろうか。

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