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ありがとうとごめんねだけはちゃんと言う派

朝起きてすぐ、昼ごはんの前、夕暮れどき、夜寝る前と、ことあるごとに湯を沸かす。お気に入りの魔法瓶にルイボスティーやら紅茶やらのパックをいれ、とぽぽと湯をそそぐ。このお茶をつくる流れがすきだ。

入れたて熱々のお茶をカップにそそぐと湯気がたち、ふわぁといいにおいがする。これもすきだ。でも熱々は飲めないので、すこしだけ冷ましてちょい熱くらいで飲むのがすきだ。

すこし冷ます間に読む本を選び、1ページ2ページとめくるうちに夢中になってしまい、気づけばお茶は冷々になっている。しょうがないので冷々のお茶を一気に飲みほし、また熱々をカップにそそぐ。

そしてまた冷々になった頃に思い出して飲んでいる。ときどきはその冷々のお茶を1割くらい残して熱々をその上からそそぎ、すぐに飲んでもちょうど良いちょい熱加減にして飲むこともある。でもなんとなく美味しさが半減するような気がするので、たまにしかやらない。

そんなことを毎日くりかえしているので、同居人が珈琲を淹れてくれたときなどは「はい、いま飲んで。おいしいうちに飲んで」と、最適なタイミングで声をかけられ、言われるがままにのろのろと飲み、うまあとなっている。

お茶さえひとりでは良いタイミングで飲めないポンコツ具合を発揮しているので、いい加減にしてほしい。と、書いてはみたものの、実際にはそこまで気にしていない。こんなわたしを愛してくれとさえおもっている。なにかと意識は低くとも、ありがとうとごめんねだけはちゃんと言いたい。

そんなわたしが、だ。今朝は早起きしてたまったしごとを片付け、マンションの更新の書類を書いてポストに投函し、その足でしごとの打ち合わせへ30分はやめに行き、上司がすきそうなベトナム料理の店を下調べしたのち、打ち合わせを無事終えて、上司とランチにありつき、帰ってさらにしごとをし、同居人の好物のカレーを2〜3日分大量につくった。

ここまで書いて、あれ、ただ社会人としてやるべきことをしただけではと気づいてしまったけど、日々ずぼらな人間と暮らしていると同居人もマヒしてくるようで、えらいね〜えらいね〜とほめそやされ、わたしはふっふっと得意げになり、そんな程度のことで今日も安定に甘やかされているとおもいながら、いまはベッドで冷々のお茶をのみながら日記を書いている。

赤染晶子さんの『じゃむパンの日』がおもしろい。読みながらくっくっと声に出してわらっている。関西弁のリズムがここちよく、漂うすこしの哀愁と、ときどきずばっとはいる、確信に触れた言葉が痛快。

エレベーターにのっている間に同じビルの資格教室のスタッフに間違えられ、看護師に間違えられ、勤務先では客に間違えられ、ついにはインド人に間違えられる。わたしは誰か。と自問自答しながら、給湯室の壁に貼られた「鍋ややかんを捨てないでください」という張り紙をみて、誰。これこそ誰。とつっこむ赤染さん。はあ、おもしろい。

読んでいると、日記でもなんでもいいから、わたしもなにかしら文章を定期的に書いておきたいなあという気になる。よし、よし。

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