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【感想文】夜と霧/ヴィクトール・フランクル

『マジ卐 ……とか言うな!』

といったことを考えながら、本書『夜と霧』において印象深かったエピソードを紹介して感想文の締め括りとする。

▼ 「苦悩」が精神的な自由へと導く:

「精神の自由」の章(みすず書房,P109-P.113)では、「過酷な外的条件(=収容所での生活)が、人間の精神的な自由を完全に奪うことができるか?」といった問いに対し、著者が経験と理論に則して考察しており、その際、著者はドストエフスキーの言葉を以下の通り引用する。

「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

みすず書房,P.112

これはデカルトの命題「我思う、故に我あり」にも通じる部分があるが、上記引用は裏を返せば、人間を人間たらしめる要素は「<<わたしはわたしの「苦悩に値する」人間>> になること」であり、ひいてはこれが精神的な自由を担保して「生」を意味深いものにするのだと著者は語る。ではどうして「苦悩」が精神的な自由をもたらすのか。それを説明する前に紹介したいエピソードがある。

▼生きる意味を吟味する:

「教育者スピノザ」の章(P.123-P.129)では、収容所において一九四四年のクリスマスと新年の間でかつてないほど大量の死者を出したとあり、その原因は、多くの被収容者が「クリスマスには家に帰れる」という希望が叶わなかったことによる落胆と失望が大量死を生んだからだという(P.128)。つまり、生きる意味を失ったのである。こうした発想を著者は疑問視しており、続く「生きる意味」の章において著者は <<コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを想い知るべきなのだ>>P.129 と主張しており、生きることには「苦しむことや死ぬこと」も含まれており、その総体が「生きる意味」なのだという(P.131-P.132)。そのため、クリスマスの大量死は、多くの人々が生きる意味ではなく「生き延びる指標」にすがってしまったことに起因しているともいえる。生だけに意味を求めるとそれ以外の事柄(運命・苦しみ・死)が全て無意味なものに成り果ててしまい、これでは一律して「収容者」と名付けられたただの動物である。これと同様に前述のドストエフスキーの「苦悩に値しない人間」とは、考えることをやめた本能の奴隷と解釈することもできる。しかし一方で、最後まで「苦悩に値する人間」であり続け、そして精神的な自由を勝ち取った或る女性収容者が存在したとの事であり、以下にそのエピソードを紹介する。

▼人間の生を全うした彼女:

「運命──賜物」の章では、余命わずかとなった女性が次の言葉を晴れやかに語ったという。

「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」

「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここにいるよ、わたしは命、永遠の命だって……」

同,P.113-P.117

上記の言葉を、気の触れた女性の妄言と捉えるのはたやすいが、虐げられた生活によって彼女は <<感謝>>、<<永遠の命>> を自発的に見出したのだとすれば、彼女こそが、運命・苦しみ・死からなる生を自覚の上で誇り高く全うした「精神的に自由な人間」という見方もできる。

以上


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