言葉を紡いでいる途中に、脇道で生まれ続ける日常はずるい。

数十のあたため途中の文章が、メモに溜まっていて地味に増え続けている。それらを整えながらも、日々の暮らしで次々に生まれる小さな気付きやホッコリやニッコリは、ずるい。

突然に私の目の前に現れて、灯火のように弱い光を見せたあと、それは、影だけを残して静かに消える。

私は何があったかを思い出そうとするけれど、そこにはもう、あの空気や言葉は残っていない。


今日のこと

久しぶりに家族三人で車に乗りました。車に乗ることも、食事をすることもできなかった下の子供が、「病院の帰りに焼肉を三人で食べたい」と言ったのです。病院に行く前、下の子供は「一緒についてきてほしいです」と上の子供に頼みました。上の子供が「しょうがないな」と少し嬉しそうに準備をしてくれて、私達は三人で車に乗りました。

病院の待ち時間、ぐったりしている下の子供の背中に、私は指文字を書きました。半年前には当てられなかった「つき」という指文字を感じ取り、すんなり答えられました。彼はとても誇らしげでした。

そのあと、下の子供のふっくらした耳たぶを「この耳は福耳って言うんだよ」と私が教えると、彼は自分で耳たぶを触って確認して「本当だ、お母さんより大きいしやわらかいね」と笑い、そこからまた目つきが穏やかになりました。

帰り道に焼肉屋さんに行きました。開店30分前だったので、時間まで近くの百円ショップで買い物をしました。この待ち時間は、本来二人にとって不快なもので、「もう車に戻る」「焼肉も止めてもう帰ろう」とか好き放題に言うのだと身構えていました。しかし「何か買ってくれるなら待てる」とたくさんの人が行き交うお店の中で、ソワソワしながらもその場に居続けることができました。開店時間まで一度も悲しそうな顔をしませんでした。

焼肉屋さんの席についてすぐ、「お肉まだかな」「チャンジャがメニューから消えた」「タレを先になめておこう」「喉が渇いた」と口々に言いながら二人はソワソワし始めました。すでに百円ショップで30分待ったあとなので、これ以上待てないようでした。でも、二人とも激しく感情的になることはありませんでした。信じがたいイリュージョンを見せつけられているようで、私は驚き続けていました。

私は、彼らのソワソワに巻き込まれないようなるべく穏やかに注文をして、お肉を焼きました。

二人とも一人前に満たない程度で「もうやめておく」と食べるのをやめました。いろんなお肉を合わせて五人前注文していましたが、残りのお肉は全て私が食べることになりました。

みるみる焼けていくお肉に私があたふたしている横で、二人の子供は韓国海苔を味わい、何枚も入っているという理由だけでケラケラ笑いながら喜び、その海苔をダチョウ倶楽部のごとく譲り合いながら食べていました。

「お母さんごめんね、やっぱり僕あんまり食べられなかったね」と謝ってきました。謝ることなど何もしていないけど、彼にとっては「お母さんを心配させていることが、僕の謝らなくちゃいけない理由」と思っているようでした。

帰り道は二人とも苦しんでグッタリするのではないかと思っていましたが、言い間違い聞き間違いの笑い続けた帰り道となりました。

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ここだ。

この帰り道、どんな話で笑ったのか、幸せな気持ちに包まれた三人で交わした言葉たちが、思い出せないのだ。

私に残るものは「すごく笑った」それだけだ。その幸福の影が残ってくれているうちに、私は書き留めなければいけなかった。

整えるまでもない、整えていたら逆に温度が下がり、あらゆる邪念に埋もれていく。そんな幸福の影は、毎日積み重ねられて下からみるみる消えてしまう。
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「きみはおぼえているかしら、あの白いブランコ。」という詩のように、良い一日は詩にしておくべきでしょうか。詩といえばメロディの好きな「心の支えはいつの時代も 男は女 女は男」の歌詞には、中学生の頃からずっと「いや、そうとは限らない」と思っていましたが、今もその考えは変わっていません。

ああとても眠くなってきました。どうやらねぼけています。

あ、一つ思い出しました。睡魔が記憶を整理してくれたようです。鮮明に目覚めました。

下「離婚したけど、パパはぼくの家族だよね」
私「そうだね」
下「お母さんにもパパは家族でしょ?」
私「そうだね、死んだときエンマ様に『夫はいたか』と聞かれたら「一人いました」と答えることになるね」
下「だよね」
上「エンマ様ってそんなことを質問するの?」
私「『子供はいたか』『はい、二人いました』と答えなくちゃ、手続きが通らないでしょ」
下「なんの手続きだよ」
上「ほんとだよ」

これでケラケラ笑ってくれていました。

文字にすると、何が面白かったのかちょっとよくわかりません。

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その場にいないと全く笑えないような、その時だけの温度や空気感は、すぐに影になってしまう。今思い出さなかったら、私はもうずっと思い出さなかったのだろう…。

子供達の笑い声と、互いを気遣う姿に、本当に幸せな気持ちになった。同じ一日のうちに、実は辛いことも悔しいこともあって、それを愚痴りたい気持ちがプスプスと空気漏れしそうなほどに充満しているのだけど。

この複雑な心の日常を生きているのが我ら人間なのだ。やっぱり日常はずるい。


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