祈りの花、無力の花

‪自分のことも整理できていないくせに、自分の現実から逃げるように、友人のことを祈っている。祈るだけで、目に見える行動はなにもしていない。なんにも。つまり、自分のことも友人のこともしないでソファで動かず横たわっているだけの、それだけの一日だ。

「あの子のことは、今はそっとしていたほうがいいのよ…」という高度な人間力のある人の話ではない。実際にできることが何ひとつも思いつかないのである。

常に視界に入っているし、そっぽを向いているわけではない。困っている友人にここぞとばかりに振りかざし救い出す力があれば、私も友人も即ハッピーのWIN-WINなのだけど。残念、大抵の場合、やばい力はゼロである。

だから私は祈る。
そのときむくむくと育つのは「無力の花」。まるで、1本の毛髪のように無防備でちっとも役に立たない花である。

このヘンテコな花は、誰の心も癒さない。癒さないかわりに、邪魔もしない。無力な花は無力だから、いつもただ、そこに咲いている。

気付かれない花は、ないのと同じだ。時にそれが「言わなくちゃわからないよ」という悲しみを生むこともあるだろう。「そうか、そうだね、言わなくちゃダメだったか。でもやっぱり声にはできないんだ」それを伝える力すら、無力の花はない。

私は「無力の花」だけでなく、自分の存在自体にも深い意味はないと思っている。自然の一部として命を与えられただけで、蟻や蜘蛛と同じように、数多のなかの一個体だと思っている。

なぜ生きるのか、何のために生まれたのか。存在の意味を考えるのは、必要のない人を見つけることと同じだ。それを考えだすと恐ろしく、あっという間に灰になりそうだった。だから私は「存在に意味はない」と断定しなければならなかった。

私だけではなく、何もかもがきっと意味を持たない。それぞれが勝手に思いのまま好きにやっているだけだ。好きじゃなくても勝手にそうなってしまうこともある。例えば「小川の石が少し動いたら、水面にたまった葉っぱが流れはじめた」とか「雨が降った翌日、アスファルトの上の花火の跡が消えていた」とか、大した意味はない、確たる目的があったわけではないけれど、気がつくと結果がある。そんな世界に、私は生きている。

無力であることを嘆く日もたくさんあるけれど、わたしは無力であることを祝福したいのだ。

そういえば思春期からずっと、ゆらゆら帝国の『昆虫ロック』が好きだった。その一方で、かせきさいだぁの『夢の夢の夢の夢』も好きだった。私の頭の中は、彼らの音楽に影響を受けている。顔も見えない誰かに歌を届けることができた彼らだけど、きっと彼らも無力な花を持っていると思う。

もうすぐ木枯らしが吹いて紅葉の季節が近づいてくる。私は紅葉の無意味さが好きだ。

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