無題149

濱田さんのこと

今日は濱田さんのことを、記憶から文字に起こしてみようと思う。

濱田さんは、元サラリーマン。好きなおやつは白あんぱん。外見は伊東四郎氏にどこか似ている。髪は綺麗なシルバーで、櫛で綺麗に七三分けをしている。

服装は、夏なら数年前の地域イベントで自分がデザインしたレモン色のTシャツに、広島カープのキャップ帽。冬なら、仕事の休みの日に着ていたラフなワイシャツにベストを合わせて、ユニクロのダウンジャケットを羽織り、耳当て付き帽子をかぶる。

新聞や本をよく読む。パズルや脳トレが趣味で、耳の上に鉛筆をかけ考え込むことが多い。野球と政治のテレビ番組はテレビの中に入ったかのように熱く語り、歌謡曲の番組では全部の神経をテレビに向けて、口が「ほ」のまま固まっている。


これが濱田さん。

誰の身近にも一人はいそうな、気のいい憎めないおじさん。
そう、私は今日、そんなおじさんの話がしたい。

理由はひとつ、私が忘れたくないから。


濱田さんとの出会い

私はかつて介護職員としてデイサービスで働いていた。
濱田さんは、私が就職する前からそこに通っていた利用者の一人だった。

【デイサービスとは】
高齢の介護を必要とする人が過ごす場所。朝から夕方までを過ごし、食事や入浴・レクリエーションやリハビリを受けることができる。利用者ごとに来所する曜日や頻度が決まっており、利用者は送迎から入浴までの全てを職員とともに過ごす。職員だけではなく、利用者同士の友情もあちこちで築かれる。多くの人々と出会いと別れ、語らいと笑顔が尽きない大人の居場所だ。

濱田さんという人

彼が難病になったのは、10年前だった。手足の先から少しずつ筋肉が痩せていく病気だ。車の運転が難しくなり、立つことが難しくなり、足の感覚が日に日になくなっていった。弱まっていく筋力に抗うべく、彼はリハビリをしていた。

最初の頃は平行棒を使って体を腕力で支えながら、ゆっくり歩く練習をしていたが、途中から立ち上がる練習へ変更になった。指の力が弱まっており、危険であると判断されたからだ。指先の力が弱まってきたことで、文字が震えるようになっていた。ボードゲームの駒を落としてしまう回数が増えていた。

濱田さんは、弱さを隠さない。喜怒哀楽を細く強く出すことで、自分の中にため込まない技術を持っている人だ。常に自分の心に正直で、主体的で、淡々と行動する。


思うように立てないときは「悔しいなぁ」と言って目をギュッとつむった。

七夕の短冊には「もう一度歩けるようになりますように」と書いた。

母校が甲子園で優勝したときはバンザイを何度もしながらボロボロ泣いた。

他の利用者がわがままな態度をとる時は、まるで私達の上司のように、やれやれと言った顔で自らその人に近付き「あのねぇ、ここはそういう場所じゃないのよ」と話しかけていた。

レクリエーションゲームで自分のチームが惨敗だと、おやつの時間まで「あのチームはズルしていた」「不公平だったからもう一回させて」とふてくされて文句を言い続けた。

お風呂が大好きで、体調が安定しないときは入浴許可が下りるまでずっとソワソワしていた。他の人が脱衣室に行くのを見て「もう一回血圧測って」「もう大丈夫だと思う」と私たちをたびたび呼び止めた。それでも入浴許可が下りないと、ガックリ肩を落とした。

カラオケの日のために、全利用者の得意な歌を分析していた。歌の上手な利用者を発掘すると、目を輝かせて誰よりも大きい拍手を贈った。歌を忘れかけた認知症の利用者には「あんたの好きな歌のはずだから、わかったら一緒に歌って」と声をかけ一緒に歌った。

かつては旅行が趣味だったから、旅の話になると止まらない。
誰かが旅の思い出話をするとき、濱田さんは旅の空気を前のめりに味わおうとする。匂いを嗅ぐように、咀嚼するように、旅の途中にあったことに耳を傾ける。そして同じ風景を旅人と共有するかのように目を細めた。


そんな日々の中で、濱田さんが一番お気に入りの時間は晴れた日の送迎だった。自分の力でどこかに行くことできなくなった今、四季折々の風景を楽しめるのは唯一この時間だけだからだ。

「ここはまだ紅葉がまだだな」「あ、あっちはもう真っ赤だ。たまちゃんは京都の嵐山に行ったことがあるか、一度は見ておけ」なんて話をしながら、目をキラキラさせる濱田さんはとても嬉しそうだった。


濱田さんと私

濵田さんの家は、少し遠かった。だからデイサービスのお迎えは一番最初だし、お送りも一番最後になった。濱田さんと運転手と私だけの時間には「ここだけの話」をよくしてくれた。

奥さんとの馴れ初めや、感謝の気持ち。
子供達への本当の想い。
いつも一緒になる利用者さんへの温かい気持ち。
少し前に亡くなった親友との思い出。
自分の親父はこんな人だったらしい、という誰かから聞いた話。
年賀状を今年でやめると決めた経緯。


ただの介護職員である私を、濱田さんは「たまちゃん、たまちゃん」と、まるで娘か孫のように可愛がってくれて、お迎えに行くと決まって「お!今日は朝からいい笑顔に会えたぞ」なんてニコニコ喜んでくれた。私の仕事している姿を見ては、具体的に褒めてくれたし、私の上司や他の利用者にも「たまちゃんの仕事への姿勢は本当に素晴らしいんだ」と触れ回ってくれた。

私が職場を離れる日、濱田さんはこっそり自宅の電話番号を手のひらに書いて見せてきた。口パクで「でんわばんごうだ」と言ったあと「困ったことがあったら、いつでもかけてこいよ」と耳打ちして笑った。だけどその文字は、ペン先が太くて読むことができなかった。

解けた魔法

退職してもう5年経つ。手のひらに書かれた電話番号は解読できなかったが、何度も迎えに行った自宅はもちろん覚えている。濱田さんが何曜日に自宅にいて、いつ病院にいく、というスケジュールだって覚えている。

でも、会えない。

退職してから、困ったことが山ほどあったけど、濱田さんに「困ったよ、大変だよ、どうしよう助けて」と頼りたいときが何度もあったけれど、それはできなかった。

私はあくまで介護職員であり、濱田さんの家族でも友人でもない。

関わっている間だけ、繋がりの魔法がかかっていたのだ。どちらかがあの場所を離れたら、とたんに魔法はとけて私たちは他人となる。そういうものなのだ。


バイタルチェックやトイレや入浴や食事やリハビリや送迎、あらゆる小間切れの時間のなかで、家族とは愛とは仕事とは喜びとは哀しみとは人生とは、と語り合った。

それは、この日々が永遠でないこと、私たちが他人であること、この場所でまた会えること、そして、お互いをリスペクトしていること。それだけの繋がりだった。だけど「それだけ」というにはあまりに贅沢な温かい繋がりだった。

祈りあう絆

私は、永遠という言葉が嫌いだった。日常に使う言葉としては、とても信用ならない言葉だからだ。でも、ある状態において納得できる場合があると知った。それは「一方、または双方の時が止まっている時」だ。

濱田さんと私は、魔法が解けた時にそれぞれの時を止めた。
そう、私の考える、永遠が有効になるパターンである。

少しルールを無視すれば簡単に繋がることができる距離にありながら、それをしないで「きっと幸せにしている」と濱田さんの幸福を祈っている。すると同時に「『たまちゃんは幸福に生きている』と決めつけている濱田さん」からのビデオレターが、心一杯に映し出される。

そしてテレパシーで会話した気になって満ち足りる。

「おーい、幸せかい」
「幸せだよ、幸せですか」
「ああ、幸せだよ。あなたが幸せで何よりだ」
「今、幸せかい、ってあなたが思ってくれたからだよ」
「奇遇だ、私もだよ」
「嬉しいよ、引き続き幸せでいてね」

人生の師、心の支柱

日常は、次々に大岩がゴロゴロ転がってきて安心できない日々の連続だ。苦労とか苦悩とか面倒とか厄介でみるみる埋め尽くされていく。

そんなとき私は思い出にすがる。思い出の中に希望や教訓や幸福感を探して、少し安心するためだ。

あの日々のように、デイサービスの皆とカラオケを楽しむ日はもう来ない。だから私は、退職してからも一人歌い続け、ちあきなおみとテレサ・テンはだいぶ上手に歌えるようになっている。そうして今、あの時に知った歌謡曲は私の心の支柱となっている。

濱田さん、私はこれからもあなたを思い出し続けたい。
幸福感がいつもあなたのそばにありますように。

ぜひサポートをお願いします!ふくよかな心とムキッとした身体になるために遣わせていただきます!!