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「多様性」の敵は誰なのか


多様性。オックスフォード英語辞典によると、多様性(diversity)は、「互いに非常に異なる多くの人や物の集まり」のことを指す。性別、人種、国籍、年齢、SOGI(性的指向・性自認)といった属性やアイデンティティから始まり、境遇や嗜好、コミュニケーションの取り方など、地球上に生きる人間はどこを切り取ったとしても、先天的にも後天的にも多様な存在である。差異を肯定し、尊重し、補完し、連帯していく…それは道徳的な意味だけでなく、私たちの生物学的な種の保存にとっても理に適っている。多様性について述べられる時は概ねこのような論調である。

先に述べておきたいのは、私は多様性という言葉に親しみを持ってきた、ということだ。人それぞれで良い、みんな違ってみんな良い。そのような考え方と親和性を感じるからだ。
例えばクラスや職場に自分とは相容れない人間がいたとき、その考え方や思想、スタンスが驚くほど気に食わなくても、「この人と自分は元々違うのだから当たり前だなあ。まあしょうがないや」と納得ができる。あるいは気になる人がLINEで既読無視しがちでも、「まあこの人は私と違ってメッセージが苦手なタイプなんだろうな」などと思えるかもしれない。つまり、理解ができなくても納得ができれば、心は軽くなる。だれかに寄せたり、比較したり、「何が正しいのか白黒つけようぜ!」などという切羽詰まった気にならなくて済む。差異性を全肯定するというのは、基本的に優しく寛容な態度に映るし、余裕のあるメンタルにつながっている、と感じる。一見平和主義的な思想だ。そのような理由で、多様性が叫ばれるようになって久しいが、その潮流自体は私の肌に馴染んできた。と、最初に述べておきたい。
ただの弁明になってしまうかもしれないが。なぜならこのnoteでは、最近多様性について具体的に考えることがあり、結果として多様性がわからなくなってきてしまった、ということを書きたいからである。


話は逸れるが、フェミニズムについて最近基礎から学ぶ機会を得た。私は広報の仕事をしていて、広報キャラクターを制作したり運営するにあたり、多様化するジェンダーへの配慮が大変重要なポイントとなるからだ。
YouTubeなど、メディア露出も検討するにあたり、アイドルっぽい可愛いピンクの服装をした女の子のキャラクターを当初考えた。女の子にした理由は、中の人(声の担当)が私のため、女性キャラが妥当だと考えたからだ。また、広報の対象が小学生〜大学生といった若年層のため、かわいらしく年齢も低めの女の子にしよう、となった。(けっして幼女の広告的訴求力に期待したからではない、と一応言っておきたい…笑)
だがここで、他機関の重鎮から重々しく指摘が入った。「このキャラは、ジェンダー差別で炎上するかもしれないぞ」

…なぜ「女の子」なのか?なぜ「ピンクの服」なのか?なぜ「アイドルっぽい見た目」なのか?なぜ「女の子っぽい名前」なのか?これらがすべてジェンダー差別に値すると指摘された。恥ずかしながら私は、その指摘で初めてそのような状況を知ったのだ。

色々と調べていくと、早稲田大の熊のキャラクターも、男の子のベアが既存で存在するが、それに合わせて女の子のベアを加えようとしたところ「なぜ男女なのか?マイノリティへの配慮はないのか?」などが問題になったりしたようだ。詳しくは以下。


つまるところ、私は多様性に共鳴してきた気でいながら、多様性を重視する社会においての思想について不勉強すぎる現状を自覚した。学術機関の専門広報を担当してまだ1年の若輩者なので、自分でたくさん学ばなくてはならないと危機感を持った。ビジネス界よりもさらに「カタい」業界だ。ジェンダーに対する配慮もひとしお必要である。(ここまで「多様性」という言葉を使ってきたが、今回は私の仕事の体験から、主にジェンダーにおける多様性についての記事となることをここで記しておきたい。)

色々と調べる中で、「男らしい」「女らしい」というイメージ、そしてそれを連想させる外観やアイデンティティ、設定の「全て」において、見る側・作る側共にセンシティブになっていることがわかった。あなたは旅行先で、町おこしのためのゆるキャラが可愛いリボンをつけた女の子だったとして、「リボン=女の子、というイメージの助長だ。そもそもなぜ女の子っぽいキャラにしたんだ?」などと引っ掛かった経験はあるだろうか?正直、私はなかった。だがそれはもしかしたら、私がマジョリティに属しているからにすぎないのかもしれない。リボンが好きな男の子もいて、あるいはリボンが本当に嫌な女の子もいて、性別を決めたくない子もいて、そういう子がこのキャラを見た時にどう思うか?私は厳密に代弁ができない…だがつまるところ争論となるのは、その共感性の欠如においてなのかもしれない。

しかし私は、怒られてしまうかもしれないがさらに正直に言うと、この多様性の風潮は、表現への抑止力のようにも感じてしまった。あらゆるアイデンティティやジェンダーへの配慮をするとなると、キャラクターとして無難なのは、けっきょくのところ「くまモン」みたいなものになるのではないか。(くまモンを挙げたのはわかりやすいからにすぎない。)つまり、ジェンダーレスで、もはや人間ではなく、中の人も明確にはいなくて、オシャレや装飾もつけていないシンプルなキャラクター。…すべてを勘案すると、「くまモン」が正解なのではないか?とまで思った。
もちろんくまモンは人気だし素晴らしいキャラクターである。実際に弊広報グループにおいても、「くまモンみたいなキャラにしよう」という案が出た。そうすれば重鎮からの批判も受けないだろうから、私も楽だ。だがモヤついた。果たしてこのような状況で、多様性社会におけるキャラクターは多様であるといえるのだろうか?私は多様性の抑止力とも呼べるパワーを痛感していた。

女の子っぽくない女の子キャラがいてもいい、それはわかる。性別を選ばないキャラがいてもいいし、決められていなくてもいい。それもわかる。だが、女の子っぽい女の子がいても良いのではないか?それが多様性なのではないか?それとも、大衆のイメージを創出する広報キャラクターだから、やはりテンプレートにするのは良くないのだろうか?いまは文化的多様性を創出していく過渡期だから、社会的影響を視野に入れる広報において、従来的な女の子っぽいキャラを設定することは「適切ではない」ということだろうか。こうして、私は多様性の孕む実情の難しさについて考えるきっかけを得た。

同時期、私はフェミニズムについても学び始めた。今までフェミニストというと女性尊重を掲げる思想的な立場というイメージがあった。だが「フェミニズムとは性差別をなくし、性差別的な抑圧をなくす運動」のことだと知った。ベル・フックス著の「フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学」には、現在フェミニズムが力を失っているのは明確な定義がないからだ、として、フェミニズム運動の変遷が最初に説明されていた。
そこでは、フェミニズムにも多様性があって、もともといくつもの違った考えに分かれていたことが記されていた(男女平等を最優先する改良主義と、社会構造自体を変革する必要があると説く革命主義があげられていた)。アメリカでは人種差別という現実もあり、実際、白人中心で資本主義的な階級差別のある家父長制社会で、男女平等を目指すというのは絵空事であった。白人特権階級の女性は経済的に恵まれ、革命主義のフェミニストとは対峙した。そのような中で、「ライフスタイル・フェミニズム」というものが現れる。女性にも色々ある(まさに「多様性」がある!)、だからフェミニズムにも色々あっていいじゃないか!といった調子である。この考え方が広まり、「フェミニズムからは政治がなくなった」。結果としてフェミニズムはより親しまれやすく、身近な存在になっていくと同時に、当初の政治的正当性やスタンスのブレが出始めた、ということだ。

ここで面白いと思ったのは、「フェミニズムの多様化により、フェミニズムからは政治がなくなった」という事実である。

ライフスタイルに合わせたフェミニズムとは何かというと、自分にとって都合のいいタイミングでフェミニズム的な立場を取ることができる、ということだ。そもそもライフスタイルは人により多様だし、ライフステージもどんどん変化する。ファッションのようにフェミニストに着せ替えて多様性の担保を主張したり、フェミニズムを利用することができてしまうことは想像に難くない。実際アメリカでラディカルなフェミニズムを支持するのは、差別を一身に受ける労働者階級出身の女性やレズビアンくらいであったそうだ。その他の、「ファッションフェミニスト」たちは、たとえばキャリアウーマンになったら唐突に職場で男性支配なるものに意義を唱え始めるなどして、「フェミニズム=対男性」という間違った文化理念が醸成されるきっかけにもなった(この理念的な誤解は今日の日本の言論空間にも存在する気がする…)。
考えてみれば、人種差別に反対する姿勢は決して「白人への対決」ではなく、「人種差別を正当にしている社会、社会構造への異議」である。フェミニズムもまたそれと同種のスタンスであることがわかれば、フェミニズムに対する漠然とした勘違いは正されるだろう。

問題は「脱政治化」だ。脱政治化されたら、それはもはや多様性の一端を担うに過ぎない。すなわち、「ああ、フェミニズムね。そういう主義の人もいるよね。まあそれもいいんじゃない、私は違うけど」で済ませることができてしまう。「ああ、黒人差別反対ね。まあ、それもあっていいんじゃない?私には関係ないけど」となるだろうか?それでよいのだろうか?
この、いわゆる文化相対主義、あるいは多文化主義(両者はスタンスとして同じではないが、類似点がある)は、「多様性」と親和性が高いように思う。なぜなら多様性とは、個々の差異性を認め、平等に扱い、尊重することで維持されるものだからだ。「みんな違ってみんないい」だからだ。だが今日的な多様性の潮流は、たとえばこうしたジェンダー問題やフェミニズムのような立場的な分断を抱えるセンシティブなフィールドですら、強制的な「脱政治化」が行われてはいないだろうか。ここでいう脱政治化とは、問題解決のための議論の土俵にすら上げない、ということである。いち思想のまま、言論空間で化石化させるということである。

それはまるで、「でもそれってあなたの感想ですよね」という某評論家の決まり文句のようだと感じる。感想は色々あっていい、それは主観的なものだから。でも、感想として平たく扱うことで問題化することすら排除しているのである。このスタンスは楽だ。私も人間関係でこのスタンスを取ってしまうことがあるから分かる。だがこれは、多様性が本来意味する他者理解や多文化共存を可能にする社会には決して繋がらない、と私は考える。なぜならそこには、「分かり合えない(分かりあう必要はない)」という分断の意志が明確に存在するからである。
いま、多様性という言葉が表面的にまとう親しみやすさと、それが実際に孕む解しきれない混沌について考えたい。さらには、多様性という概念の思想的価値が肥大化するあまり、表現空間では抑圧と自粛のムードも存在し、矛盾した「多様性神話」なるものすら感じている。多様性の敵はいま、多様性の中にこそあるのではないか。

私が、あなたが、誰かが持つひとつひとつの違和感、ひとつひとつの理不尽、ひとつひとつの疑問。そういうものを少しずつでも問題化し、表現し、共有し、政治化していくことこそが必要だと思う。それが真に対等に多様であるということではないだろうか。

ピンクの服を着た小さな女の子のキャラクター。それについてどう感じるのか。どう考えるのか。各々の主観的な感想からでいい。むしろそれが重要なのだ。それを出し合って、いろいろな人が同じ視線から見つめてみるところから始めてみなくちゃわからない。
「多様性の論題はセンシティブだから、無難にくまモン2世をつくろう」…というのは、多様性の問題を脱政治化しているに過ぎないのだ。

私たちが真に多様であるために、本当に取るべきスタンスはなんなのか。私はさらに多様性について学んでいこうと思う。仕事でも、私自身の社会的なスタンスでも、恐れず感想を言っていこう、伝えていこう。政治化し、自分ごととして捉えてみることからはじめたい。

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