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1-2.芸術家たちの視野の中で

望遠鏡や顕微鏡などの新たな光学機器が科学の分野にもたらした影響について、視覚文化の研究者でもあり映画史家でもあるジャン・ピエロ・ブルネッタが『ヨーロッパ視覚文化史』が次のように書いている。

話は今、科学革命前夜の時代に差し掛かっている。微視的研究と巨視的研究、すなわち解剖学と天文学は、光学機器の系統的な利用のおかげで実現可能となる。つまり、光学機器はアリストテレスやプトレマイオスの思想体系に基づく世界の認識原理を根底から覆しながら、人間の観察力を想像不可能な領域まで広げることになったわけである。

そう。それはここまでも見てきたようなガリレオやニュートンらに代表される17世紀の科学革命と呼ばれる変化につながっている。

古代ギリシアやローマの文献が長い間、ヨーロッパから失われていたことは先にも述べた。失われていたアリストテレスやプトレマイオスなどの自然哲学に関する文献がヨーロッパに再輸入されることになるのは、1453年の東ローマ帝の滅亡、1492年のグラナダ陥落によって終了したスペインのレコンキスタの結果、多くの文献やその研究者がヨーロッパ社会に流れ込んできたからだった。そのタイミングにグーテンベルクの活版印刷革命が重なって、ルネサンス期においてギリシア・ローマの古典的権威への再評価は一気に高まった。

しかし、その再評価はすぐに覆されていくことになる。それが、光学機器がもたらした新たな視覚情報であり、新世界からもたらされる様々な自然物&人工物だった。古代の書物には書かれてはいない情報が、まさに目の前に現れたことで、16世紀の自然哲学者たちは古典の権威にばかり頼るのではなく、自らの目で観察すること、自分で体験することを重視しはじめた。実験科学的アプローチのはじまりだった。

実験科学の芽生えの時代に芸術家たちが見ていたもの

世界の見方に大きな変化が現れたこの時代、その変化に敏感だったのは何も科学者や医師ばかりではない。彼ら以上に視覚情報を扱う画家たちももちろんそれに反応している。

代表的なところでは、1632年に描かれたレンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』や、1668年頃には親交のあったレーウェンフックをモデルにフェルメールの『天文学者』が描かれている(レーフェンフックがまだ微生物を見つける前)。

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ここで、それがオランダの画家に集中しているのも偶然ではなく、最初の顕微鏡がオランダで発明されたことにも通じるのだが、当時のオランダがレンズの生産地だったからでもある。解剖術やレンズという新しい視覚拡張の技術が生みだすこれまで見たことのなかった視覚情報が人々の想像力を大いに刺激する様を画家たちも決して見逃さなかったのだ。

コペルニクスのレンズがイタリアでさかんに研磨されて、宇宙を、散らばる星々をほんの小さなガラスの円環の中に集めることで眺めさせてくれていた。一方、逆に微小生物たちの世界全体を見させてくれる道具の開発が進行中という噂も立っていた。ただ一滴の水のしずくの中に浮く、ザリガニ様の微生物を、うまくいけば一滴の精液中に坐す精子微人(ホムンクルス)を見ることができるのだ、と。

歴史学者のサイモン・シャーマは、視覚世界が大きく移り変わる様に人々が興奮した時代の雰囲気をとらえて著書『レンブラントの目』でこんな風に描いている。そう。人々は解剖や顕微鏡の生みだすスペクタクルに興奮していたのだ。

実際、レンブラントが描いた解剖学講義は17世紀においては一つの社交イベントであった。解剖劇場と呼ばれる公開専用の講義室が設けられ、同僚の医師や学生たちのみならず、一般の市民も入場料を払って見学していたという。まさに学問の分野で観察や体験が重視された時代であることをよく示している。最初に建てられた解剖劇場1594年にパドヴァ大学に建てられたものだった。その2年後にはオランダのライデン大学に建てられている。ライデンといえば、レンブラントの出身地で、彼自身、すこしの期間ながらライデン大学に通ってもいる。ただし、レンブラントが『テュルプ博士の解剖学講義』で描いた解剖の光景はその後移り住み生涯をそこで暮らしたアムステルダムでのもので、ニコラス・テュルプ博士が腕の筋肉組織を医学の専門家に説明している場面。描かれた見学者の一部は、絵に描いてもらう代金を支払った医者たちだと言われているように、この絵は一種の肖像画でもある。

レンブラントは多くの肖像画を描いた画家だ。
集団肖像画もこの作品を含め、いくつも描いている。特にこの作品は、他の画家の作品には見られなかった動きのある構図で若いレンブラントの名声を高める役割を果たした。のちに『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』、『織物商組合の幹部たち』などの集団肖像画の名作が生まれたのもこの絵での成功があってのことだ。単独であれ、集団のものであれ、多くの人が肖像画を描いてもらいたがった時代だった。そう、解剖も見世物なら、それを見ている自分自身も見世物にしたがる視覚偏重の時代だった。

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視覚情報が変わったということでいえば、絵に描かれる対象が変わったのもこの時代だった。同時期のオランダでは、プロテスタントの信仰のために宗教画や神話画の需要が少なくなっていた。代わりに増えたのが、肖像画や静物画、風景画だった。神に頼らず、自分たちで世界をよくするためのデザインをしはじめた時代、画題もまた神から人へと移っていた。

絵を描いてもらう余裕のある裕福な人たちは自らの肖像画を描いてもらうとともに、自らの裕福さを示す豪華な所有物を静物画に描いてもらったりもした。その静物画の中には、活けた花たち、燃えるロウソク、宙にただようシャボン玉、懐中時計、朽ち果てていく書物、そして、頭蓋骨などを描いた絵があってヴァニタス(=空虚)と呼ばれていた。ヴァニタスは、人生の儚さ、空しさを寓意する絵として静物画の中のひとつのジャンルを築いてもいた。なんでもかんでも絵画化して見せたがる時代であると同時に、目に見えるものを懐疑する感覚ももった時代だった。それがデカルトの懐疑にもつながっていくのだが、それについては後で詳しく述べるとしよう。

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