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1-3.蒐集家たちは何故「集めて、並べた」のか

さて、ここまで、16世紀の後半から17世紀のはじめにかけて「デザイン」というワードが意識されるようになった時代のヨーロッパ社会の背景として、

・ そもそも、16世紀、17世紀のヨーロッパは宗教改革やそれにともなう内乱や戦争が頻繁に生じたり、小氷河期による農作物の不作やペストの流行なども重なったりと危機的な時代であったこと
・ また、世界観の面でも大きな変化が生じた時代であり、航海術や天文学、医学の発展によってこれまで見たことがなかった、つまり、ヨーロッパの人たちが知的に認識していなかった視覚情報が大量に入るようになったこと
・また、それによって従来のギリシア・ローマ以来の古典的な知の体系に混乱が生じたため、それを超えた学問・思考の方法が求められ、結果、その方法として観察や経験を重視した「新たな学」の方向性が生まれてきたこと
・ 観察や経験を重視する「新たな学」は、社会に対して2つの影響を生み出すことになった。その影響は芸術家たちの作品をみるとわかる。ひとつは観察&経験が実験や研究を目的としたそれを容易に超えて見世物になりがちで、人々の視覚的な好奇心をより煽り立てるようにも働いたこと。もうひとつは新たに生まれた機械論的世界観が人々を不安に陥れたこと

といった点を見てきた。

博物陳列室の流行

こうした変化が、人間がデザインという思考法で自分たちの生きる世界を自分たちの力で計画し実現するという方法を生みだし、身につけるにあたっての外圧としても、内圧としても働いたのだと考えられる。特に、デザインという方法を生みだす内圧として生じたこととのひとつとして、当時のヨーロッパで様々な珍品奇物を集めた博物陳列室(ミュージアム)が流行したことも上げておいて良いだろう。この博物陳列室(ミュージアム)は「驚異の部屋(ヴンダー・カンマー)」と呼ばれた。次々とひっきりなしに目に飛び込んでくる未知のモノどもをとにかくきちんと収めておく場所が、人々の貪欲な好奇心を満たすためにも、その逆の不安を鎮めるためにも必要だった。押し寄せる未知のモノどもが与える外圧への対処として、人間側からの内圧としての活動としてミュージアムの設立という現象が生まれてきたのだが、この多くのミュージアムが作られていく過程を通じて、「集めて、並べる」ことで新たな意味・価値を生成するというデザイン的な方法のひとつの形が生まれ、洗練されていったのだ。

では、その16世紀、17世紀に生まれたミュージアムについて、もうすこし見ていくことにしよう。
まず、驚異の部屋とも呼ばれた当時のミュージアムは、いまの博物館や美術館の原型にあたる。けれど、当時のミュージアムの位置付けはまだ、社会的な権威をもった個人蒐集家の私的なコレクションであり、めずらしい貝や植物、奇形の動物などの自然が作り出した珍品も、絵や彫刻、道具などの人間が作った興味をひく奇物も、明確な分け隔てなく集められた、まさに百科全書的な博物陳列室だった。

例えば、ナポリの薬種商であるフェッランテとフランシスコのインペラート父子も蒐集家として知られ、自身のミュージアムをもっていた。そのミュージアムの様子を描いた版画は、当時の驚異の部屋を描いた図像として度々引用されるものである。

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