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思考にはノイズを取り入れて

ノイズって大事だ。
穏やかすぎる均質な状況からは、クリエイティブなものは生まれてこないんだなと感じる。思考を刺激する異質なものの存在は思考の枠組みを柔軟なものにするためには必要だ。

もちろん、ノイズだらけで、どこにも主旋律的なものが存在しない状況では話にならない。でも、次にどんなものが飛びだしてくるかわからない緊迫感は、創造的なアウトプットが必要なプロジェクトには欠かせない。

プロジェクトには波風が必要だ。
あまりに似たもの同士、適度に利口な人が集まると、逆にプロジェクトは停滞するのでは?と思っている。

多様性のある人たちの交わらない見方を取り入れる

だから、僕は、外の人を巻き込むかたちのプロジェクトデザインが好きだ。
ある程度、多様性をもった人たちが参加する共創的な取り組みに価値があるのも、ノイズを混ぜることができるという観点からだと思っている。ノイズは思考の可能性を広げてくれる。

多様性のある人が参加する共創の場では、いろんな人がいろんな立場、生きている環境の違いから、異なる意見を言う。それは時には、同じ議論のまな板にさえ乗らないようなズレが見られるケースもある。
でも、その視点の違い、文脈の違いが、思考する視点をいろんな方向に向けるきっかけとなる。見方が変われば今まで見えていたものにも違う側面が見えることもある。当たり前のフレームワークに凝り固まりがちな見方を、別の方向へと切り替えてくれる。異なる枠組みで見ることで、新しい考えが生まれてくる。

もちろん、多様な人が集まる場で合意形成をする必要は必ずしもない。変にまとめようとすれば、角がとれた当たり障りのないアイデアになりがちだから、むしろ、合意形成は避けたい。参加者の多様な意見、アイデアを、誰か1人、あるいは、少数のコアメンバーが統合すればよい。この統合こそが本当の意味での思考である。
あくまでノイズを取り入れるのは、お行儀の良い紋切り型のアイデアにおさまるのを避けるためで、最終的なアウトプットがとっちらかったゴミの山にしたいわけではないからだ。思考にノイズが必要なだけで、思考そのものがノイズでしかないものを生みだすのでは話にならないのは、当然だ。

自分で考えることとは、そもそもどういうことか?

一方、多様な人が参加するワークショップや、いろんな人々に話を聞いたりその活動を観察させてもらったりするリサーチをうまく使えず、それらの方法に否定的な人がいる。

でも、なんでそうなるんだろう?
そういう人は、普段、自分がどうやってアイデアを思いついたり、考えを展開させたりしているかをちゃんと自覚しているのだろうか?と思う。

果たして、自分の考えというのは、元から自分が持っている情報だけでできているのか、ということだ。
そんなわけはない。その持っている情報自体、どこか外部から入手したものであるはずだ。人は常に外部から得た情報を頼りに、自らの思考を組み立てているはずだ。なのに、外の意見や考えを取り入れるワークに否定的なのは、むしろ、よくわからない。

ノイズになるから、というのを理由にしたくなるのかもしれない。

けれど、世の中はそもそもノイズで溢れてるではないか。そのノイズだらけの情報のなかから、普段は、何らかの基準で情報の取捨選択を行い、必要なときにその情報をひきだして使っているはずである。ようは普段からノイズが雑多にある状況で思考することが普通であるはずである。

その状況はワークショップやリサーチを通じて、外から多様な情報を得るのとなんら変わらない。いや、日常のたくさんの文脈が交錯した状況に比べれば、ワークショップであろうとリサーチであろうと、はるかに文脈はある程度、まとまった状況にある。情報を取捨選択し、考えをまとめるには楽な状況でさえある。

なのに、普段は自分で考えられて、そういう共創の手法を使うと考えがまとめられないというのは、結局、普段から自分が考える時に何をどうして考えているかということに無自覚だということだろう。自覚した途端、あたふたしてしまうから、そういう場を避けたくなるのだろう。

そうならないためには、自分の思考のスタイル、思考の型に自覚的である必要がある。

思考の方法を自覚する

人それぞれ、自分が得意とする思考の型は違うはずだから、ここでこういうのが思考の型だと示すことはできない。
だから、各自それぞれが、自分はどうやって考えているときにうまく考えられるかという型を見つける必要がある。

型が見つかれば、外部からの情報を自分がどんな風に扱って、どう自分の思考に変換してるかがわかるので、どういう状態で情報を入れて保管しておくと自分に都合がよいかもわかって楽になるし、外の情報を余裕をもって扱えるようになる。情報を俯瞰的に見たり、細かく見たりの、視点の入れ替えも容易になり、隅々まで目が届くようになるはずである。具体的には、ヒアリング力や話の理解力が向上するだろう。

型が個別の状況に応じて、形となる。
話は脱線するが、「ち」という言葉は古来日本語では「生命」や「たましい」を表す語らしい。
わかりやすいのは「命 いのち」。それ以外だと「大蛇 おろち」だとか「ちはやふる」だとかの「ち」らしい。
その意味で「型 かた」に実際の個々の現場で、生命が吹き込まれると「形 かたち」になるのだろう。ようは型がなければ、どんなに魂があっても形は生まれないということかもしれない。

さて、ここで思考の型といってるのは、どういうものかを示す例として僕が自分の型だと思ってることを、以下に書きだしてみる。

要素出し、ストーリーの束、全体の流れ

僕はとにかく外から情報が集まったら、まず考えるための要素を自分が操作しやすい状態にすることからはじめる。

情報量が少なければ頭の中だけで使える状態に整理するし、頭の中だけで扱えそうにないなと思ったら、まずは書きだしてみる。
特に量が多いときは、要素同士を動かせるよう、ポストイットに書きだすこともある。
一覧化して俯瞰できるようにすること、情報を操作することができる状態することが思考作業の最初の準備だと思ってる。

次にやるのは、要素を組み合わせてストーリーを作ることだ。全体のストーリーを考えるのではなく、いくつかの要素でストーリーになりそうな束をつくる。話の流れになりそうな情報の組み合わせを見つけるのだ。
KJ法のグルーピングに似ているといえば似てる。けれど、最初からストーリーにしようとしてる、話の流れを作ろうとしてるので、図解化の視点も入っている。
ここでバラバラだった情報のなかに新たな論、コンセプトのタネが生まれてる。それを見逃さないことだ。

いくつかのストーリーの束ができたら、全体の流れを考えてみる。どういう流れで全体を説明してみるとよいか、どういう組み合わせにすると新しい論やコンセプトがそこから見えてくるか、と。

この時点でようやく自分の考えてることがまとまってくる。

例えば、具合的な作業イメージはこんな具合に。
土曜日のWorld IA Dayで話す内容をまとめてようと思考した結果だ。

1.要素を書きだす
2.ストーリーの束をつくる
3.全体の流れを考える

の流れをやって、話すことの骨格が見えた。最初は何を話そうかよくわかってなかったが、話したい内容をいったん全部書きだしてみて、ここまでまとめたら、話したいことがまとまった。

型さえあれば、最初はなにもわかってなくても平気

よく最初にまとめ方がわかってないと考えられない人がいるが、僕にはそれはない。今のような手順で自分の考えは何かを探る作業を進めれば、最終的には何か考えがまとまるのはわかっているから。

だから、最初にどんな風になるかがまるでわからなくても不安はないし、そこにどんなノイズが入りこんでも捌けると思ったらる。いや、ノイズが多様性を持っている方が考えが広がってよいとさえ思う。

なので雑多に読書できるし、多様なひとを巻きこんだワークも、リサーチも大歓迎。いろんな角度から見た情報というのは自分の視野を広げるために貴重だと思う。

こんな風な思考の型をもうすこし広げて考えれば、プロジェクトのアウトプットを作るということにも応用できる。思考の型をベースにどんな形で、プロジェクトをデザインしておくと良いかさえ自覚し、流れを組み立てておけば、そこにどんな情報が入ってこようとアウトプットへと収束していくことができる。もちろん、プロジェクトの根幹を崩すような状況変化を促すネガティブな情報は歓迎しないが。

そんな型を自分で持てているからこそ、自分の視野を広げる意味で、適度なノイズはプロジェクトには必要だと思うのだ。求められるものの創造できないものであればあるほど。

#デザイン #クリエイティブ #プロジェクト #コラム #思考

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