欺かれた視覚

視覚のウソ。

そして局を結ぶに、事物とわれわれとの距離を知るためのあらゆる方法が不確かなものだと言わざるを得ない。……それらのさまざまな点より発した光線がすべて目の後部の一点に収斂しないが故であって、遠近法の絵を見ればそれがいかに易々と欺かれるものかが分かる。というのも描かれている形象が、そうあるべきだとわれわれが思っているのより小さかったり、その色彩が少しぼやけていたり、輪郭が少し曖昧だったりすると、それらの形象は実際より遠くにあるもののように、また実際より大きく見えてしまうからである。

こんな風にして遠近法のウソを告発するのは、他でもないルネ・デカルトだ。あの有名な「我思う、故に我在り」という命題が提唱された1637年公刊の『方法叙説』に含まれる「屈折工学」の中の一文である。

デカルトが告発する

こんな風にも書いている。

また遠近法の規則に従ってさえ、円は別の円によってではなく楕円によってこそもっと巧みに表現され、正方形は正方形ではなしに台形によってこそ巧く表現され、他の図形についても全く同じことが言えるからである。つまり、イメージとしてより完璧たらんとし、ある事物をよりよく表現しようとすればするだけ、その事物には似ていてはいけないことになる。

このデカルトによる遠近法のもたらす視覚的虚偽の告発を教えてくれるのは、ユルジス・バルトルシャイティスによる『アナモルフォーズ』だ。

バルトルシャイティスは、「物理的世界のみかけがいかにウソであるか、それを決定的に傍証するもの、それがたとえばアルベルティの「正しき手法(コストルツィオーネ・レジティマ)」であり、ヴィニョーラの第二則なのである。遠近法は正確な表象の具ではなく、一個のウソなのだ」と、遠近法を「正しき手法」と呼び、その技法を『絵画論』において明らかにした、レオン・バッティスタ・アルベルティの名を上げて、そのウソを指摘する。

デカルトはこんな風にも言っているようだ。

私は、これ以上なく真、これ以上なく確かだと思ってきたものを、今まで感覚により、感覚を通して学んできたのであるが、それでも時には、五官が人を欺くものであることを知らされた。かつてわれわれを欺いたことのあるもの(疑ってかかることのできることどもの謂だが)を心から信じることのないようのするのが賢明だろう。

デカルトの懐疑論の根源はここにあると言っても過言ではない。

アグリッパもすでに告発していた

デカルトが遠近法のウソを告発するより100年前、ドイツの魔術師にして人文学者、神学者ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパは1530年の著書『諸学諸技芸の不確実と虚妄と誤謬』を刊行している。
アグリッパは「諸学を讃美するのではなく、むしろそれらを責め蔑することこそが余の意図である」と言い、「何故なら、理性を通じて狂気に至るほど危ういことはなく、知識の集積は幸福をもたらさぬからである」と、なかなか素敵なことを序文から言っているらしい。

アグリッパはとにかく、ありとあらゆる学問の虚偽をあげつらっている。
「算学は虚妄なると同時に迷信三昧のもの」と言い、幾何学はさかしらは人知のでっちあげたものにすぎないと言う。
その舌鋒は天界にまで向いて「黄道十二宮の星宿図や北半球、南半球の図や形象は伝説の中にしか占める場を持たず……地球の測定など烏滸の極みである。地球を測るなど、まさにはかり知れぬ愚行ではないか」と言う始末。
すべては塵であり迷妄であり、神のみが全てを知り全てを支配するのだとアグリッパは言う。

もちろん、そんなアグリッパにとって遠近法も例外ではない。

「遠近法」とも別称される光学は幾何学のすぐ後に続き、後には宇宙測定学が来る。遠近法はこうして、世界を幾何学的に測る術のひとつなのである。しかし、それは欺きでもある。この言葉の後、重要な二つの定義が定式化されている。「遠近法は、偽りの外見が何故そういうふうに目に映るのかの理由を教えてくれる」し、一方、光学に力を借りる絵画は「誤れる測定によって事物に、現実にそうであるのとは異なる姿をとらせる」。

バルトルシャイティスは、このアグリッパの遠近法の評に、すでに100年後のデカルトの考えにつなかるものを見いだす。

この本には既にデカルト的な言説の胚種が含まれていて、その上、遠近法についての評言はその一語も変えずにそのままそっくり、同じ規則をパラドキシカルに延長したものに過ぎない狭義のアナモルフォーズにも当てはめることができる。

アナモルフォーズ。まさに遠近法の技法をまやかしのために使った絵画作品を言う。代表的なのはホルバインの「大使たち」。ある方向からみると髑髏が浮かびあがる、あの絵だ。

それは1533年に描かれていて、まさにアグリッパの本と同時代。
単に年代が近いだけではないようだ、アグリッパの『虚妄』の棹尾の結論はそのままホルバインの作品に示されたのに酷似したものが並べられているのだから。

最初に発明したアーティストたちはのっけから分かっていた

デカルトより100年も前に、遠近法のウソに気づいていたアグリッパ。では、その嘘に気づいたのは、彼が最初だったのだろうか?

いやいや、高山宏さんの『魔の王が見る』を読むと、どうやら、そうではないらしい。

遠くにあるものは小さく、近くにあるものは大きく見えるはずだ、というふうに思っているわけである。
そうなのだろうか。そういう反省というか、吟味が生じた結果、〈消失点〉という一点へとすべてが収斂し、そこが意味の中心となってすべての事物がきちんと整序されるこの遠近法的な世界の見え方が、15世紀以降、4世紀にも及ぶ時間をかけて捏造されてきたきわめて特殊で歴史的な虚構であることがわかってきた。わかってきたと言うが、遠近法をそもそも15世紀に最初に発明したアーティストたちの一世代は、そんなこと、のっけから知り尽くして、大いに遊んでいたのである。

なんてことはない。最初から虚構と分かっていて、遊んでいたわけである。それをデカルトが真面目くさって、遠近法は欺きだなんて言うから、むしろ、その後、何年ものあいだ、じゃあ、本当の答えみたいなものがあるんだと思いこんでしまったわけだ、人間たちは。

そのデカルトの懐疑論というウソに気づいたのが、太陽の残像について考えたゲーテにはじまる生理学だし、「境界でなく、連関として」で書いたマッハの一元論でもあるだろう。ようは正しい見え方なんてものがあるわけではなく、ただただ人間の感覚があるだけだ。

カメラ・オブスキュラと人間の目を重ね合わせて視覚というものを考えた、レオナルドらにはじまり、デカルトを介して定着した、機械的な目の時代が終わった。視覚の欺きというウソの時代が。

けれど、こうした歴史の変遷を知らなければ、逆に、アグリッパやデカルトさえ気づいていたウソに気づかず過ごしてしまうことになる。それが現代の僕らだろう。
自分が何を見ているつもりなのか、何によって見させられてるのかにも気づかないまま。やれやれではないか。

#視覚 #デザイン #思想 #哲学 #絵画

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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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