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死について考える【90日目】

運命というやつがあるのであれば、占いというのも案外合っているのかもしれない。いくら運があがるアイテムを持っていようとも、運命が決まっているならば、そのアイテムがあろうがなかろうが、良い時は良いし、悪い時は悪いであろう。人がこの世に降り立ったのは偶然なのか必然なのか。神がいるとすれば、偶然ではなく必然であろう。神がそうしたのだから。つまり、それは運命であり、今生きていることも、これから先どこまで生きるかも、すべては決まっていることなのだ。未来はわからないと言いつつも、もしかしたら、これは、この人生は、録画した映像を流しているだけに過ぎないのかもしれない。つまり、神が映画鑑賞をしているのだ。

もし、運命が決まっているというのであれば、どうこうしようとも、結末は決まっているわけで。いくら焦ろうが、焦らなくても、事象は起きるのだ。つまり、この先、何もやることが見つからず、困るという未来もあれば、何かしらがそのうち見つかるといったストーリーもある。運命があったとして、ストーリーを作るならば、何かしらこの先あるのが普通であろう。しかし、何もない場合もなきにしもあらず。未来のことはわからないのだから、そのストーリーの完結もわからない。だから、焦らなくてもというけれど、結局は見えない未来を前に、焦りを感じるのだ。そして、その焦りもまた運命だったりする。この焦りがあったからこそ、未来への出来事へつながる場合だってある。逆に、焦りがない場合も、また違った未来があるのだろう。ただ、ここは分岐という意味ではなく、それぞれ独立した、期間のことなる出来事のことだ。運命が決まっているとしたら、分岐などないのだ。

しかし、人間は選択を迫られる時が来る。簡単な話、ご飯をカレーにするかラーメンにするかだって、ひとつの選択だ。そして、それは現状分岐かもしれないが、未来は実はひとつに決まっていて、どちらかを選択するというのも決まっているのだろう。それが運命というやつだ。映画でパターンをわけて放映することはないだろう。それと同じだ。もしかしたら、そういう映画もあるかもしれないが、しかし、どちらにせよ、その映画はどちらか1本のストーリーを流すしかないのだ。平行に世界をわけられないということだ。同時上映しても、見る人はどちらかを見るわけだ。同時に見える画面でも…どうだろうか。そこまで来ると、同時にストーリーが進んでいるという見解もできなくはない。また、それは映画に限らず、物語、漫画でもゲームでもいいのだ。特にゲームは選択肢によってストーリーが変わるものも多い。その物語を同時に見る時、その結末を同時に受け取る時…いや、そうしたとしても、それは同時に物語を見るというひとつのストーリーになるのだ。片方見ることをA、Bとわけて、同時に見ることをABとはせず、新たにCとするのだ。つまり、それもまた1つの運命であるわけだ。同時という選択はある意味、1つの決まった道であったわけだ。

死ぬのもまた運命であろう。いくら運が悪いとも運が良いとも言っても、死ぬ時というのは決められているのだろう。人間の頭の上に寿命が見えるのであれば、それは変化することはなく、固定されているものだろう。変化する場合は、神が関与する場合。つまり、映画監督が取り直しした場合であろうか。

死はどうしようもない。死に抗うことはできない。死は受け入れるしかない。そうなるのであれば、死を受け入れる前提で、今に注力して生きることが先決なのではないだろうか。今を一生懸命生きる。未来も過去も見渡さない。時には反省というものは大切であったり、予測は大切であるが、いくら心配しても仕方ないというのは明らかだ。そういう生き方、やっていければいいなと思う今日この頃だ。

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