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ビスピノーサムを買い、チキン南蛮を作る。

相変わらず、「頑張ってもすぐに振り出しに戻される」星の下に生まれたことを痛感する毎日である。

生きていると辛いことの方が多いと理解しているものの、この1年には、まっこと辟易している。この数ヶ月、数週間もまた然りだ。

ふわふわと落ち着かない時間を過ごしつつ、「死ぬまでにやりたいことリスト100」を見返す。
そこに書かれていた今すぐに実行できることをとにかくやろうと思い立つ。


「観葉植物を買う」。

これがもっともすぐにでき、かつ何か今の寂しさを紛らわせてくれる可能性を感じた。

毎日仕事に向かうデスクが無機質で何やら侘しく、以前からキュートな鉢をひとつ置きたいという思いがずっと頭の片隅にあったのだ。

時折、植物屋に出向き、物色するのだが、どうにもピンと来ず、先送りを繰り返していた。

今日は意地でも巡り合おうと心に誓い、母の作った木の葉丼を吸い込み、家を出る。


兵庫県丹波市の片田舎に位置する「Succulents HITOTUKI」。
なんの前触れもなく、現れる多肉の渦に驚きを隠せない。こんな場所があったのか。

書いていて気づくが、多肉って太い人にぴったりではないか。ストレートな表現すぎて、逆に今まで気がつかなかった。

ハウスの中にずらりと並んだ多肉たち。どれも小さくて可愛い。
多数の多肉をひとつの大肉が腕組みしながら、口をへの字に曲げてうーんと唸りながら眺めている。

みんな選ばれたくない、と目を背けている。心なしかタラリと冷や汗をかいているようにも見える。

それはきっと本心ではないだろうと自己中心的な解釈をし、容赦なく、一株いただいてきた。

ビスピノーサム。

小ぶりでぽってりな塊根がキュート。

なんともいえないサイズ感に心惹かれる。小さな葉っぱも可愛らしい。
店主は忙しそうだったので、世話の仕方などを聞き損ねたが、調べてしっかり育てていこう。

1mくらいのデカさに塊根が育つ場合もあるとネットには記されていたが、そうなのだろうか。その時はその時と腹を括ろう。デカければデカいほど可愛かったりもするはずだ。もう少しでかい鉢に植え替えよう。


翌日はチキン南蛮を揚げる。

翌日は家に誰もおらず、昼はママの飯がないようだ。

ここぞとばかりに、チキン南蛮を揚げる。
先日のドライブで買った新玉でタルタルを作りたかったのだ。

新玉をひと玉丸ごと使って、軽やかなタルタルに仕上げたい。
ゆで卵を雪平で茹でる。あえて手を抜かず、ちゃんとした工程を踏んでいく。やはり料理は無心になれ、心が整う感覚がある。

鶏ももを切らずに1枚丸ごと揚げようと思っていたが、南蛮タレの絡みを重視して、大ぶりに切り分け、衣の表面積を上げていく。素材を活かさず、とにかく衣に溺れたい日もある。

小麦粉をはたき、もっちょりと卵にくぐらせる。
熱した油にせっせと投入していく。

焦げないよう、衣のふわふわが損なわれないように軽めに揚げたところで引き上げ、余熱で火を通す。少し経ったら、火力を少し上げた油に再投入し、気持ちカラリと仕上げ揚げをする。

南蛮ダレにじゅぅと浸す。もう仕上げだ。
先に米をよそうか、南蛮を盛り付けるか数秒思案する。

とにかく一番美味しい状態で食べたいのだ。
白米の保温力を信じて、白米をさきによそい、目にも止まらぬ速さで揚げタレどぶ漬け鶏の山を作っていく。そこに軽やかでいてもったりとしたタルタルをこれでもかというくらい羽織らせる。

新玉タルタルを纏う揚げタレどぶ漬け鶏。秒で姿を消した。

できた。
写真を撮るのも億劫である。

一心不乱にかきこんでいく。まぁ間違いない。
どぶ漬けの甘じょっぱさと、新玉のスタッカートな食感が小気味良い。これは春のリズムである。衣もふんわりだ。

タルタルの重ね着を何度か繰り返し、腹にすべて収めた。
満足しきったように思えたが、その時頭に浮かんだのは「次は何を食おう」ということだ。

とことん私は太いのである。
明日も明後日も太いのである。

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