見出し画像

自己愛にまみれた男たちを糾弾する

たまに猫が睨んできますナ。あれは一体どういう心理で吾輩を睨みつけてくるのでしょうか。「コノヤロー喧嘩するかオラ」なのか、「メヂカラ(目からビーム)」なのか、「私、あなたが好き…」なのか。何はともあれ、フリーズしたが如く、ゴミを捨てに来た吾輩をジロジロと見ている。吾輩も負けじとジロジロと見つめる。そのまま数十秒、お互い動かず。「だるまさんがころんだ」ではあるまい。そのうちに吾輩は目をそらす。猫も目をそらす。すぐさま猫を見る。そうすると猫もこちらを見る。動いたら負け。吾輩の負けだ。猫は勝利した。

そういえば先日会社に猫缶を持ってきてご飯にかけて食べている社員がいましてナ、「友よ、美味しいのか」と聞くと「美味いっす」と返答。「食わせてくれよ」と聞いたらいいよ、というので食べてみたところ、普通に薄味のツナ缶ですな、ありゃ。自分から好き好んで食べるものではないけれど、たぶんツナマヨとかで出されてもわからないだろう。そのくらい微妙な味なのである。マタタビとか入っているのかしらねえ。

猫といえば、吾輩は猫が好きという人をあまり好きではない。特に男性については、セルフブランディングで猫好きを装っている輩も多いのである。吾輩の学生時代の後輩は、犬派だったくせに好きな女の子が猫好きだという話を聞いて以来猫に鞍替えし、猫のフリーペーパーを集め、猫のグッズを集め、猫の写真を撮り始める始末であった。お前が好きなのは女だろ、猫ではないだろ、と助言したが「俺は猫」と訳の分からない供述をしている。世の女性の諸君に伝えたいのは、セルフブランディングのために普通に男は嘘をつくので、猫好きというのは話半分に聞いた方が良いということである。ただし、たまにマジモンの猫好きがいるので要注意だ。彼らはもはや宗教的に猫をあがめている。原理主義だ。自らの命を差し出しても猫を守ろうとする。そんな彼らに猫をディスると人権侵害として訴えられるので気を付けなければいけない。

好きなものを聞いたとき、好きだと言ったものを心から好きなのか、その対象物を好きだと言っている自分が好きなのか、自分をよく魅せたいと思っているのかでだいぶ変わるのである。前者は無償の愛、後者は自己愛である。前者はやめられないとまらないかっぱえびせんである。何をしようが離れることはできない。冷めるということもない。なぜかラーメンを食べてしまう。なぜか二郎を食べてしまう。そういうものである。後者は自己愛なので「好きになる」ということにメリットがなくなれば自然に感情は消えてしまう。厄介な男女関係はこちらの方が多い。「こいつは俺がいなければ生きていけない」だとか、「私がいないとこの人はダメなの」とか。そういうセリフを聞くたびに、「そんなわけあるかボケ」と言いたくなるが、100%場が白けるので言うのをやめる。えらいぞ自分。がんばれ自分。

たいてい「自分がいなきゃダメ」と思っているものは、自分がいなくなってもなんとかやっていけるものである。猫を見て「この子は私が居ないとダメなの」と思っているなら、そりゃ大間違いである。猫は人間よりもよほどたくましい。なんといっても彼らには狩猟の血が流れている。人間よりも強いのだ。しなやかなのだ。強かなのだ。自分より弱いなどと思ってはならないのである。

猫にせよ人間にせよ、誰かを甘やかすことがひいて精神安定剤になるのは、マァ理解できなくもない。だが、優しくすることと甘やかすことは違うのである。なので吾輩は甘やかすことなく自称「猫好き」自己愛男子たちを糾弾し続けるのである。そんな吾輩はカピバラ好きをアッピールし、「吾輩はカピバラに似ていると言われるのだよ」と告げては、会社内外の女子たちから顰蹙を買い続けている。可愛いと言われたい。可愛いと言ってくれ。ブエーン。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?