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第3回 短歌読書会――小島なお『乱反射』

第一回、二回と引き続き、今回も小島なおさんの『乱反射』の短歌読書会です。
(今回は2首取り上げましたが、一首目で自分なりに歌を詠んでみたりしたので、2首目の考察は少なくなりました。)



【1首目】 "窓という窓"

ぶらんこのゆれいるような春くれば窓という窓きらきらとする

小島なお(2023)『乱反射』書肆侃侃房. p.92

○窓という窓
ひな:なぜここで繰り返し表現(強調表現)を使うのか?
コト:あまり表現として違和感はない。

コト:ではもし別の表現であればどういう表現にするか。
ひな:「ぶらんこのゆれいるような春くれば 窓きらきらし○○○○○○○」

コト:「窓という窓きらきらとする」は風、空気感を表現しているのでは。
きらきらとする」が一番言いたいもの。つまり光を詠みたいのでは。
誘導するために「窓という窓」を前に置いている。
それがぶらんこから窓への自然な流れにしている。
(想像の誘導、ストーリー、くれ”ば”)

○他の季節ならは光をどう表現する?
春:きらきら
夏:ギラギラ サンサン 煌々(こうこう) カンカン(想像しやすい、鋭く強い)
秋:ぼやん ぽやぽや(秋は夕暮れのイメージ) 
冬:キラキラ ピカピカ(人工っぽい ex.イルミネーションの光)、シャラシャラ(朝の霜柱がある時間の光)

○他にこの短歌から読み取れること
・ぶらんこ”の”を”が”にしたらぶらんこが強調されてしまう
・「ぶらんこのゆれいるような」までひらがななのが暖かい、春風っぽい
”ゆ”という記号としての文字のゆらゆら感
(ex.ゆふいん ←どの文字も柔らかい) 
・57577(31字)…季節が巡る毎年毎年のことだから、定型詩であると説得力が増す
・「きらきらとする」までが断定していない(ex."ような","という")
→自分の感じたことの想像の余地を与えている。だからふわっと言ってる


自分なりに詠んでみた

考察し解釈した歌を、解釈した意味を崩さないように自分たちで詠み直してみる。
(元の歌:ぶらんこのゆれいるような春くれば窓という窓きらきらとする)


○「ぶらんこのゆれいるような春くれば」までを用いて。

ひな:ぶらんこのゆれいるような春くればきらきらとした光が通る
↑直接的過ぎでは?

コト:ぶらんこのゆれいるような春くれば蛇口の水がきらきらとする
→冬は水が冷たいが春になるとまだ触れる暖かさを表現した。
→公園の情景
ひな:窓は学校の教室だと思ってた。

"窓"という言葉の方が汎用性がある
自由度が高いのはいいのかどうか


○もう一度詠み直しみる。

ぶらんこのゆれいるような春なりてきらきらとした窓という窓(ひな)

→"なりて"繋ぎ方を元の短歌のように曖昧で緩やかに。


ぶらんこのゆれいるような春くればもゆる花にさんざめく窓(コト)

→卒業式のイメージ。
”さんざめく”は風が強かったり、合唱が響いていたり。
ぶらんこが揺れいてる時さくらが散りゆく情景をイメージ。
(森山直太郎の『桜』をイメージした。)


【2首目】 対比によるイメージの膨らみ

ゆらゆらとくらげふえゆくこの夏もビニール傘はなくなっている

小島なお(2023)『乱反射』書肆侃侃房. p.122

・対比がわかりやすい
・これもひらがな始まり
・最後は冷たい。断定的。事実を淡々と
・現実味が急にくる


『乱反射』を扱って。

今回『乱反射』を扱い、後書きを改めて読んで小島なおさんの10代の詩について思ったことを最後に自由に言い合いました。

ひな
・実直、素直な詩でストレートに刺さる
・直接的な物を指しているが、歌としては違うところにフォーカスを置いていて、掴めるようで掴めきれないような作品。でも自分が過去に感じた感覚も含まれているのでイメージが近しい。

コト
・とても10代って感じ。表現が素直
・表現が素直ゆえ無駄に何かを感じ取ってしまう


今回にて、小島なおさんの『乱反射』を扱った短歌読書会はこれまで。
次回からは、穂村弘さんの『短歌という爆弾』を扱いながら、短歌の詠み方をより専門的に深めていきます。

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