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コヘレトは熱血漢

 ここ1ヶ月読書といえば、もっぱら10月よりはじまった放送大学2年目2学期に履修している各科目の教材を読んでいましたが、そのさなかにどうしても読みたいと思って読んだ1冊。

 思えば私は、13歳の時分より、ことあるごとに「むなしい」と口にしてきており、あれから18年ほど経った、31歳となった現在でも、ことあるごとに「むなしさ」を感じています。
 そんな私は22歳から聖書を読み始め、23歳の時分にクリスチャンとなりました。その年の洗礼式の「あかし」において引用した聖句はローマ書6章11節、6章22節の2節でしたが、聖書中の書物として真にしっくりきたのは『コヘレトの言葉(伝道者の書)』であり、今でも真にしっくりくるのは『コヘレトの言葉』です。
 その偏愛ぶりは、通信制高校である宮城県美田園高等学校在学中の「総合的な学習の時間」におけるプレゼンテーションの時間でも発揮されました。当時25歳くらいの齢であった私は、『無常を訪ねて 〜『伝道者の書』と『徒然草』に見る存命の喜び〜』と題しては、5分という制限時間のなか、私よりも明らかに年下の、ティーンエイジャーの学生諸氏の前にて、口角泡を飛ばしながら、そのつたない論文の原稿をもって熱血に演説いたしました。そのプレゼンテーション後に、そのなかのひとりの生徒さんが、私が卓上に置いた原稿を手に「これって、『倫理』の授業と似てますね。帰ってからじっくり読んでみます」と言ってくださったことは、とてもうれしかったです。

 今回この書を読んで改めて学んだのは、この『コヘレトの言葉』において38回も発せられる「むなしい(ヘベル)」という語の意味は『コヘレトの言葉』の書かれた当時、平均寿命として、せいぜい40代程度であったなかでの「短い」、「束の間」といった意味であり、それはけっして「むなしいむなしいああいやだ、むなしいむなしいああ死にたい」といった、「厭世的」、「虚無的」、「否定的」な意味ではなく、コヘレトが発しているメッセージは、その「人生は束の間」という「厳然たる現実」をしっかりと見据えた上で、「束の間の人生にあって『今』という現実を懸命に生きよ」という、「有神論的リアリスト」としての「楽天的」、「充実的」、「肯定的」な意味合いであったということです。

 本書によると、コヘレトのこうした論調は、現世を否定し、ただひたすらに終末後の来世に希望を置いては禁欲的消極的な態度を取る「黙示思想者」、旧約聖書では『ダニエル書』に顕著なその思想的態度へのアンチテーゼでありました。

 私の師よりいただいた『実用聖書注解』において、山口昇氏は、コヘレトの思想的態度を「有神論的楽天主義」と評しておりましたが、こうして考えると『コヘレトの言葉』というのは、「終末のことは人間ごときには知るよしもない」という思想的態度に立脚し、その当時に盛んであった「黙示思想」には、けっして現実逃避することなく、一貫して「メメント・モリ(死を想え)」と「カルペ・ディエム(一日の花を摘め)」という生死に対する積極的な意気込みを神にあって説いていた「有神論的リアリズムの書」と言えると思います。

 ここからはクリスチャンとしての個人的な所感になりますが、新約時代に生きる私は「キリストにあって、キリストへの信仰によって終末後に復活し、天のエルサレムにてキリストと共に憩わせていただく」という希望を抱いていながらも、前述した「むなしさ」によって、人生に対してきわめて厭世的、虚無的、否定的な思いが渦巻くことがたびたびあります。
 しかし、そんな時にこそ『コヘレトの言葉』は、

「なにを陰気くせえことを考えてやがんだ、この文弱のクソッタレが。たとい人生100年時代といえど、そんなもんはあっちゅうま。こちとらテメエの先のこと、テメエの人生なんて知ったこっちゃねえが、人生がむなしいからこそ、束の間だからこそ『今』という、神よりの最上の賜物を懸命に懸命に生きて、その一刹那一刹那の隅々まで楽しみ尽くしやがれってんだ、このクソッタレのクソ野郎が」

と、アツく背中を押してくれると思います。

 今まで、コヘレトについては、なんとなく「ボサボサの無精髭を生やした隠者」をイメージしていましたが、この『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』を読んでからは、コヘレトのイメージは「ボサボサの無精髭を生やした熱血漢」となりました。

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