創作と血

 3ヶ月前に6年ほど使った i Phone 8 から i Phone14 に乗り換えました。i Phone 14に乗り換えたのは、i Phone 8がとうとう正常に機能しなくなってきたからというのが第一にありますが、実際はi Phone 14のカメラを用いた動画制作をしたかったというのもあり、8月には、過去に作曲した曲のミュージックビデオを創りました。

 2日前に船岡城址公園の「曼珠沙華まつり」へ参りまして、i Phone14でちょうど見頃の曼珠沙華の咲き誇る景色(けいしょく)を撮影してきました。過去には、この船岡城址公園での曼珠沙華との触れ合いに着想を得た、曼珠沙華をモチーフとした『愚人と賢人』という掌編小説と、『大蛇(おろち)』という短編小説の、その作品のなかで少しだけ語られる「枠物語」としての「童話」を書いたことがあります。
 今回、船岡城址公園にて撮影した素材は、『大蛇』のなかで語られる白花曼珠沙華にまつわる「枠物語」としての「掌編寓話」の「童話的」な文体を、いわゆる「純文学的」な文体に変え、その文章の朗読に合わせた映像作品に仕上げたいと思っています。同時にBGMも創って、ポエトリーリーディング的なミュージックビデオにするというアイディアもありましたが、いかんせん「音楽」に関してつたない私は、生半可に、変に付け焼き刃的なBGMを創り添えるよりも、自負する「文章」をもとに、ほとんどチャレンジしたことのない「朗読と映像」という点にフォーカスしたほうがよさそうだと思いました。

 ということで仕事から帰ってきて、放送大学の勉強をも終えた夕刻、ためしに全文録音してみたのですが、息継ぎの音がとにかくひどかったです。オーディオインターフェイスへの入力レベルが高すぎたのもあるかもしれませんが、どうやら「鼻呼吸」をすることを忘れていたようです。
 もっというと、私が宅録で使っているマイクはオーディオテクニカのAE6100という「ダイナミックマイク」で、ナレーションや朗読の録音には「コンデンサーマイク」が適しているようですが、ほとんどはじめての試みとしての、ほんの趣味程度の朗読映像作品を創るには、AE6100の「ダイナミックマイク」で十分でしょう。

 ⋯⋯しかし、「楽器」だとか「マイク」だとか、「画材」だとか「カメラ」だとか、諸芸術のそういった「媒体」を踏まえると、ことに「文学」は、「ことば」は本当にお金のかからない、なんともお金のかからない「気安い創作活動」の「媒体」だと思います。その「気安さ」の反面、ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』において「すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう」と論じ、夏目漱石が『草枕』において「詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している」と論じていたのを併せると、じつに文学は「おのが屍骸を解剖した血」をもって書かなければならないという「気難しさ」も有しています。

 宮崎駿監督も「創作」については「血の匂いを嗅げ」とおっしゃっていましたように、気安かろうが手っ取り早かろうが、「創作」を「趣味」にあらざる「生業」とするためには、じつに「血の匂いを嗅ぐ」までの覚悟が必要だと思います。
 ここからは「クリスチャン」として、数日前より『イザヤ書』の通読を始めた私の、きわめて宗教的な話になりますが、もっと言えばその「創作」をば単なる「生業」を超えた、より大きな「使命」や「召命」へと昇華するためには、「血の匂いを嗅ぐ」どころではない、文字通り「血そのものを味わう」という覚悟がなければならないのであろうと、最期はノコギリで挽かれて殉教したという預言者イザヤの生涯に鑑みて想う次第です。

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