創作と信仰

 この1ヶ月、諸事情ありましてカフェでの仕事が休暇となり、仕事といえば火曜日と金曜日のポスティングだけをやっていましたが、本日からカフェでの仕事にも復帰いたしました。
 それで、その間も当然執筆活動を続けておりまして、4月には2作の短編を書きましたが、13歳ぐらいからことあるごとに「むなしい、むなしい、ああむなしい!」と嘆いてきた私には、やはりことあるごとに「むなしさ」というのはつきまとっています。
 もちろん「むなしさ」というのは、誰しも少なからず感じることであろうとは思いますし、かくいう私もいつも「むなしさ」を感じているわけではなく「充実」を感じている時もあります。そしてそれには「サイクル」というものがあり、その感情を右往左往するのは、私の所属している教会の牧師の奥さんいわく、

「(キリスト教的な)罪ある世界に生きている人間として、ある意味で当然の反応」

でありますが、私の場合は困ったことに「充実」を感じている時にも、やがてきたる「むなしさ」のことを考える、というよりも「むなしさ」を先取りしてしまってむなしくなる、という、基本的に根暗でネガティブな人間の私らしく、なんとも困った思考回路が働いてしまいます。

 ところで今日はカフェでの仕事帰りに名取の『カフェモーツァルトユリイカ』に入店しました。『カフェモーツァルト』といえば、バルコニー席が魅力的な『カフェモーツァルトアトリエ』には結構行きますが、今日は前回行った時は閉店間近でブレンドコーヒーをテイクアウトするだけして入店せず、すっきりと洒落た店内を見回すだけした『カフェモーツァルトユリイカ』という「名取市図書館」に併設されてあるカフェにて、2年前に書きあげた短編小説『愚人と賢人』の英訳の仕上げに取りかかり、帰路のバス車中にて本日その英訳が一応終わりました。このカフェは、ちょうど仕事場からの帰路の途中にあります。 

 そもそも私がほんの1週間ほど前に自作小説の英訳を始めたのは、今期放送大学で受講している『教養で読む英語』という、主任講師の大橋理枝さんが毎回各学問分野の教授を招き、その学問分野の論文を吟味しながら読んでいくという科目を学んでいて、私の英語力の不足ゆえに勉強らしい勉強になっていないことにもどかしさを覚えたからであり、教会にいらっしゃる、英語圏の外国人ともっと円滑なコミュニケーションを取りたいと思ったからです。それで、自作小説の英訳というのは以前にも考えたことはありますが、

「まず無理だろう」

という先入観が邪魔していたせいで実現には至っていませんでした。

 じっさい、最初に英訳のために手をつけた、ある程度の長さと文字の密度のある作品である『解脱』は、途中で、

「こりゃ、ムリだな⋯⋯」

と心が折れて、この作品の英訳はひとまず断念したわけですが、そこで英訳対象として浮かび上がり、3日前に英訳に手をつけたのが、その文字数約4700文字の短編の『愚人と賢人』。
 この作中には拙作の「俳句」、そしてその「俳句」に「付句」が加わった「短歌」が登場します。それで英訳しますと、17音字の俳句や31音字の短歌の醍醐味でもある「韻律」や「モーラ」は当然失われるわけですが、この英訳したものを読んでくださるであろう英語圏の方々への配慮として、脚注で俳句およびその付句の原文を付記したうえで自分なりに英訳してみると「へえ、こんな風になるんだ」という発見があり、たいへん面白かったです。
 もちろん、英訳にあたってはオンライン辞書と、どうしても訳すのに困った時は、牧師からすすめられた翻訳ツール『DeepL』とを併用しながら英訳していたわけですが、『カフェモーツァルトユリイカ』の店内にて、この英訳作業に取り組んでいましたところ、気づいたら「むなしさ」を感じるスキもなく、あっという間に3時間が経ち、閉店時刻となっていました。

 私の信仰する宗教である「キリスト教」的見地に立つと、神そのものに満たされようとせずに、神そのものを楽しもうとせずに、他のもので満たされようと、楽しもうと埋め合わせるのは、いわゆる「罪」です。しかし私の場合は、ことに小説の執筆だとか、あるいはそれに二次的に生じる、無謀にも今回新たに始めた英訳だとか、とにかく広義の「創作」の領域において充実していると、その忘我の境地にあって、その充実した時間にこそ、たとえば我が子が無邪気に積み木で遊んでいる時に浮かべる、父親母親のほほえみのような「神の慈愛」を特に感じます。
 それでも「自身が書きあげた作品と向き合う」というのは、大変なことです。と、感じているのも、げんに自作の「推敲」に取りかかった際には、やはり一字一句に腐心するからです。
 そして、その時の心境が如実に言い表され、凝縮されているのは、つい最近そのタイトルにとても惹かれて買って、少しずつ読み進めているシオランの『生誕の災厄』のうちの、

ひとつの作品は、いくらそれが欠点だらけな、不完全なものだと分かっていても、もうこれ以上修正することは不可能だということになったとき、完結したとされる。作者は疲れ果てて、もはやそこに、たとえ必須のものであっても、句点ひとつ付け加える気力もない。ある作品の完成度を決定するのは、芸術的要請でも真理の発する要求でもなく、まさに疲労であり、さらにいえば嫌悪感なのだ。

E.M.シオラン著 『生誕の災厄』 紀伊国屋書店

という一文です。つまり推敲に推敲を重ね、

「もう、イヤだ。もう、この作品の文章はこれ以上、一文字たりとも目にしたくない!」

という心地になってこそ、その作品の「絶対的な完成度」が決定されるわけであり、私はこの境地に至った際にも、おそらく「むなしさ」を感じてしまうことでしょうけど、トーマス・マンが作家のことを、

「天職というよりも呪いである」

と評したように、曲がりなりにも、この「呪い」にかけられつつある身として、そしてその「呪い」のうちにも、こんな私を救ってくださった主なる神への敬愛を抱いているクリスチャンとして、これからも「むなしさ」と「充実」とに右往左往しながら、天に召されるその日まで、はたから見ていると滑稽に映る瞬間のほうが多いかもしれない「創作」に取り組んでまいる所存です。

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