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『母の最終講義』 最相葉月


ひとり遅れの読書みち   第15号


   「絶対音感」「セラピスト」「証し」など意欲的なノンフィクション作品を書き続ける最相葉月のエッセイ集だ。これまでの人生の半分を費やしてきた親の介護について、細やかな心を込めて描いている。読む者の心に静かな安らぎを与えてくれる。
    また、父と母の介護生活を続けながらの取材活動の難しさや苦労話も多い。長い間介護しながら鋭い作品をいくつも書き続けてきたことに驚く。とりわけノンフィクションの作品は、どれもいろんな地域に出かけ数多くのインタビューをこなして、さらに詳細なデータ資料を踏まえて練り上げるものだろうから、その苦労は人知れないものがあるだろうと推察する。

   最相さんの父は余命宣告を受けてから9年間舌と声を失って、言葉を話せず、食事も流動食のみ。会話は小型のボードを使って行うという状態だった。「今晩、死ぬ」と何度も繰り返しながらの生活で、「不自由で長すぎる余命を生きることに疲れていた」という。   「そっちは娘がいてよかったね。子どもがいない私が同じようになったら自殺するしかない」といった暴言を吐くことも。
    さらに母が50歳のとき脳出血で倒れ、若年性認知症と診断される。以来26年間、介護を続けることになる。人の世話になるばかりの時間が続く。介護施設へ入るが、肺炎で病院に行った時には、両手を縛られるような場面にもあう。点滴を抜かないよう必要な措置だと説明される。
    母は食材を大量に注文したり、電話の「ワン切り」を日に30回続けることも。介護する親に手をかけるような事件が起きることに他人事ではないとの思いも抱く。
    母によって育てられた時間よりも母を介護する時間の方が多くなった。「納得のいく人生とはなんだろう」と自問する。
    しかし時がたつにつれて、母が自由な人生を送れないことを思うと、介護する者よりも苦しいことではないかとの思いを抱くようになる。心境の変化だろう。「母が身をもって私を鍛えてくれている」「最後の教育」と思えるようになったという。

    介護については介護する人にしかわからないことが多い。置かれた環境や症状によっても違いがある。ちょっとした言葉や細かい行為が大きな変化をもたらすこともあるだろう。介護経験者が多くなってきた社会だけに「介護の知恵をつなぐ」ようなデータベースをより活用できればと提案する。
    母が亡くなったときはコロナ禍の真っ最中であり、葬儀には厳しい制限がついた。リモートで葬儀を中継して孫(弟の子)たちに見てもらった。好評だったというが、やはり切ないものがある。

    取材には、沖縄や北海道など日本だけではなく、アメリカ、アルゼンチン、コロンビアなど世界各地にも出かけて行く。ひとりで、しかも車を運転しないという。移動手段だけでも苦労する話が触れられている。
    科学技術と人間の関係、精神医療、信仰など、他の人が余り扱わないような分野に果敢に挑戦している作品が多いだけに、今後もしっかりとした作品を生みだしてほしいと祈るばかりだ。
    

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