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創作漫画「同居人との楽しい会話」あとがき


昔、デザフェスに行った時に、作者にイラストの意図を説明されたことがある。「この部分は◯◯を表現していて〜」と。(意図の強い風刺的なイラストだった)

それを聞きながら、「絵見たら分かるわい。分かるものが作れているのに、説明したら興醒めやろがい」などと思った。


が、今なら語りたくなる気持ちも分かる。
いっそ哲学のような、自分の考えや感じたことを創作に落とし込む人は、そのコンセプト部分こそが人と語り合いたい部分であり、完成系である絵や音楽の根幹について見て欲しくなるのだろう。


そんなわけで、蛇足だなぁと思いながら創作漫画のあとがきを書く。
本来は「作品見たら伝わるやろ」が1番カッコいいのだが、私は思想ありきで創作を始めたので、やはり思想の部分の話がしたいのだ。




(テーマ的に、直接的な単語を使用してます。不安・不快感を感じる場合はページを閉じていただければ幸いです。)


「同居人との楽しい会話」のテーマは「希死念慮」でした。

※現在、私に強い希死念慮があるわけでないです。自傷行為もしたことないくらい、痛いこと怖いことが嫌いなので。
ただ、自分の土台の中に普遍的にある感覚なので、自分にとってどういう意味のある思想なのか考える機会が多く、作品にしたいと思うことが多いテーマなわけです。



希死念慮とは、Wikipedia先生曰く「自らの命を絶つことについての考えや反芻のこと」である。
また、自死という直接的な行動に限らず、「消えてなくなりたい」「楽になりたい」の感情も含むらしい。


希死念慮と聞くと、とにかく鬱々として、塞ぎ込んでいて、見るからに不健康である様が伝わるような人の姿を想像しないだろうか。

しかし、実際はかなり幅ある感覚ではないかと思う。客観的な危険度にしろ、自分の中での取り扱いにしろ。
希死念慮の上位段階に自殺企図があるが、私はここに到達したことはないし、私にとってはもっと淡々とした感覚だ。

(程度の差によって楽だという話ではないよ。本人にとって充分に重大な問題になり得ます。)



この淡々とした感覚を、存外身近なものとして過ごしている当事者も多くいるのではないかと思っている。生活の中で当たり前にいて、特別ドラマチックな絶望でもない。日常なのだと。

ふとした瞬間に頭をよぎる日常の一部。
なんなら、自分を理解し、慰めてくれているとすら感じる。



社会では自死は否定されるものである。社会は生きている人たちが活動することで運営されているのだから、”社会という組織”から否定されるのは、まぁ同然である。

でも、自分の中に産まれてくる希死念慮が、”社会という外部”から否定されたくらいで消えるはずもない。

むしろ、否定されることで人はより孤立を深め、他者に訴えることを辞め、そしてそれは自分の内側に取り込まれていく。


そして、日常を共に過ごし、自分に共感をもたらし、1番近くにいる存在にすらなりえるのだ。
”社会という他者”とは異なって。



当事者にとっては特段ドラマチックなこともなく、日常に当たり前に存在する。
死を考える己を理解し肯定してくれるような身近な存在。

それが希死念慮なのではないかと、そうした考えを書き起こしたくて、描いた作品になる。




実のところ、世の中には死ぬことなど考えたこともない人間が普通にいて、それが健康な人間らしく、希死念慮を抱く時点で医療などケアの対象らしいのだが。

なので、思い当たる節のある人は、病院やカウンセリングにかかることをおすすめする。

私はこの感覚も自分の一部なのだと受け入れているが、実行の有無に関わらず、その感覚が薄い方が、無い方が生きていく上ではメリットが大きい。

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