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「頑張ったね」が受け取れない-ACの自己肯定感-


うつ病になってから。
医者やカウンセラーから度々「頑張ってるね」と言われる。

そう言われて、ピンと来ない自分がいる。



そもそも、私は褒め言葉を受けとる・感じることに難がある。
褒められても実感が湧かない。

1番近い感覚を書くと

「何言ってるんだろう…」
もしくは
「そうなんですね」


…おかしくないか?なんだ、この感想は。
自分に向けられた言葉として、全く受け止められていない。

投げられたボールをキャッチするどころか、受け取ろうとする動作すらなく、ボールは体をすり抜けてどこかに行ってしまう。

なお、否定の言葉を投げかけられた時は、体がフリーズしてキャッチできず、体に当たってデッドボール、という感じだ。


…こいつ、体も心も運動神経悪いな…
つまり、他人からの評価に対して適切なキャッチボールができていないのだ。



正直、なぜこんな状態になるのか自分でも分からない。
いや、否定の時は分かるのだ。フリーズするのも、ボールが当たった場所に怪我をするのも。

しかし、褒め言葉の時の反応が本当に分からない。


なので、自分の過去を振り返ってみた。



◇家庭の中にある「否定と肯定」
 -否定される。褒められない。-



私の母は、私を否定することはあれど、褒めることはほぼなかった。
褒めるのは学校で教師に「娘さんは頑張り屋ですね」と言われ、「そうですねぇ、よくやってます」と返す時くらいだ。


高校生だったか、大学生だったか。
一度、「お母さんは私の長所はどこだと思ってる?」と聞いたことがある。

恋人に「ねぇ、私のこと好き?」と聞くような甘いものではなく、「この人は私を好ましく思ってないんだろうな」と感じて発した言葉だった。
(思えば、親に「私のこと好き?」でなく「長所は?」と聞くあたり、愛情でなく評価しか存在しないと感じている証の気がする)



母は私に答えた。
「…え、えーっと……あぁ、負けず嫌いなとことか!」

漫画だったら、私は母の頭の上に「あせあせ」と書き文字を入れるだろう。


ああ、こんな取って付けたような返答しかできないのか、この女は。


母の言葉は私の心に落胆を増やしたのみで、私の疑問を覆すことはなかった。



反面、否定はよくされた。

呆れ、咎め、嫌悪、反論、訂正、揶揄、拒否、苛立ち、非共感、蔑み、脅し…
バリエーション豊富だ。

そして、否定の反応はオリジナリティに富んでいたが、褒め言葉はいつも借り物だった。
褒め言葉は「誰かの言葉のトレース」で、教師など他人が言った褒め言葉を借りてきているだけなのだ。



根本的に、母はネガティブな人なのだろうと思う。
表面上、良い人のように明るく振る舞っているが、悪い面にばかり目が行き、良い面は視界に入らないのだ。


私は成績は良い方だったが、母はその成果を褒めるというよりは、「よくそんなにできるわ。私は勉強嫌いだった」という態度だった。

これは勉強に限らず、あれこれと学業に活動的だった私に対して母は「よくそんなに熱心ね。私には理解できない」というメッセージを送り続けた。


私の頑張りに対して、母からは肯定的な関心を感じなかったのだ。




◇否定に敏感、肯定はスルー

私は他者が頑張っていたらすごいと思うし、すごいなと言うだろう。
しかし、「私が頑張るのは当たり前だ」と思っている。

どういうことか。

それは「私レベルの人間は頑張って人並み以上にやって初めて及第点。人に咎められないラインになれる」という価値観があるからではないだろうか。


子供の頃、自分に降りかかった問題やトラブルを親に話しても、神経質になった母に突き放されるばかりだった。
守ってもらえず、そう感じる自分を非難されるばかりだ。

あらゆることを平均以上にこなし問題を親に持ち込まないことで、私はやっと否定されない状態になれる。

たくさん頑張ることで私はマイナスから0になることができ、否定されずに放っておいてもらえる。

プラスではないから、褒められることはない。


それが、育った環境で私が培った価値観なのだ。



承認欲求として、「人から褒められることを目的に頑張る」という感覚はよく聞くものだと思う。

頑張りや成果を家庭の外で褒められることもあったが、私にとっては誉められることは目的ではなかった。
「怒られない」「蔑まれない」ことが目的だった。

これは対人関係でも同じで、人と関わるとき、私は明るく肯定的に振る舞う。
これも「人から好かれたい」のではなく、「人から嫌われないため」に身につけた振る舞いだ。
根本から違うのだ。



カウンセラーからは、頑張ってますねの言葉の後で「ご自身の頑張りを誉めてあげられてますか?」とセットで聞かれることも度々あった。

「自分の頑張りを肯定する」ことが私には不得手だと、見ていて分かるということだ。



価値観の違いであれば、納得できると思う。
「自分が甘いものが好きなように、辛いものが好きな人がいる」みたいに、考えを転換して実感を得ることもできる。


しかし、「自分は褒められる存在だ」という価値観はそもそも私の中に存在しない文化らしい。

異文化として、頭では理解できる。
でも感性や心がついてこないのだ。


「自分をありのまま受け止める」は大分上手くなったと思う。
しかし、「肯定の言葉を受け取る」力はまた別のスキルらしい。

所在不統合


自分がかつてそうしたように、自分と似た側面を抱える誰かを探す人に、届けば良いなと思ってnoteを書いてます。

自分もそう感じたことがあった、似た経験をしたけど違う気持ちを覚えたとか、コメントで話してくれると嬉しいです。

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