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等身大の自分録と、不可視化されていく個人の痛み。



※本投稿には、一部センシティブな表現が含まれます。
そして、まとまりのない、現状の自分の記録として書いています。ご了承ください。




あなたの言葉に救われる人が絶対にいるから

人よりも大変な経験をした分人の痛みに寄り添えるか


今までいろんな人がそう言ってくれた。


でも。



じゃあ私の心は誰が救ってくれるんだろう?





こんなことを考え続けているから、人の嫌な部分を取り上げて自分からシャットアウトしてるから、余計に内へ内へとしんどくなるのも分かる。
いわゆる負の感情を自分が選択してその場に留まっている状態で、自分をより追い込んでいるのかもしれない。
しんどい状態を維持して心配されたくて、注意を向けて欲しくて、でもその状態でいる自分に疲れ果ててしまってもいるのかもしれない。




私は、自分の経験や言葉を元にどこかの誰かに寄り添いたい、居場所を感じられず孤独に苛まれる人に何か届けばいいな、そんな想いで日々湧き上がった言葉を文章にしてnoteに投稿している。
その傍で、自身の言葉を用いた個展を開いたりもする。


でも。


落ちている自分には、その言葉はこれっぽっちも響かなかった。
調子の良い時に、薄っぺらい言葉を書き連ねて。
どうせ上部だけだと感じた。
そうやって、落ちている状態の人を知らず知らずに追い込んでいるのかもしれない、とも感じた。



どこかで見たことがある。

誰かを救いたいってことは、自分が救われたいと強く望んでいるのかもしれないと。
誰かのためになりたい、誰かの役に立ちたい、そう思っている人は過去の自分を救いたいんだと。
目の前の人に、未だに救われていない自己を投影しているのだと。


誰かに寄り添う前に、誰かを救う前に、まず自分を救わないといけなかった。
まだ、救い切れてなかったんだ。
完全に救い切れる日は一生来ないのかもしれない。
そんな自分と上手く折り合いをつけて、生きていかねばならないのかもしれない。



「自分の機嫌を取れるのは自分だけ」

確かにそうなのかもしれない。
人生の限られた時間、負のループで落ち込んでくよくよし続けるのは良く無いのかもしれない。

けれど、そういったメッセージは、自分の意思や力ではどうしようもない人個人の責任だと、認知や考え方の歪み、個人の内面を変えなければならないんだと、裏を返せば究極の自己責任論の助長にもなりうる。


物事は常に二面性を内在しており、大抵はそのポジティブな側面のみに焦点が当てられる。
リスクに触れることは、滅多にない。
安易に解釈され、取り入れられていく危険性。

そうやって捉える自分が悪いんだと、
非言語的な暴力性を持つかもしれない。


結局、自己責任論。
自分の感情は誰にも大切にされないのか。
ああ結局伝わらないのか。
心の痛みは見えない、理解されないんだなって。




今後また詳しく話すが…と言いつつまだ触れたことは無かったため、noteで開示するのはこれが初めてとなるが、私は8年前に摂食障害とうつ病を患った。
摂食障害は拒食から始まり、BMI14の状態で入院もした。その後、非嘔吐の過食へと移行した。
当時は自傷行為もしていた。
数行で伝わる内容ではないが、経験としてはそんな感じだ。現在は寛解している。

(そもそもこういった精神疾患についてタブー視されている風潮、外へ語るべきでないとされる風潮が気持ち悪い。落ち込んでいるところを人に見せないことが良しとされる。何で?そんなにいつも、元気で、ポジティブでいないといけないのか?)

それはさておき。

もう夏頃から慢性的に食欲がない。
けれど、この2週間くらいは半意図的な拒食に近い状態だった。
食べるのが怖い、ほどではない。
食べ始めれば、食べられない訳でもない。
けれど、あえて気分の悪さを理由にして、少量しか食べられない自分、それによって痩せていく自分を可哀想だと思いたかったのかもしれない。
こんなことを自分で書いているのが1番可哀想だとも思う。


リストカットも、最近2回した。
せずにはいられない、という状態では無かった。
しかし、自分の中で選択肢として上がり、とりあえず切っておくかくらいの気持ちだった。
確かに、少し楽になる。傷が物理的なものに置き換えられるから、昇華される。
毎日鏡で自分を見たときに、複数の傷跡に目がいくと「可哀想に」ってなる。それと同時にどこか安心する。



拒食もリストカットも、心の傷を目に見える形にして、自分で認めたかったんだと思う。

心の痛みやしんどさは、目に見えることはない。

だから、痩せることを通して、周りからも「痩せたね」って気づいてほしかった。「大丈夫?」と心配されたかった。今の状態を少しでも知ってほしかった。

今の自分を、許してほしかったんだと思う。

何年も何年も病気と付き合って、今では乗り越えて、その期間で沢山勉強して自分とも向き合ってきたはずなのに。
またこうして、立ち返ってしまう、
言葉で「助けて」って言うんじゃなくて、受け身になって、誰かが心配してくれる、意識を向けてくれるのを待ってるんだ。


と思えば、この1週間はストレス体験があると、過食衝動が湧くようになった。
もちろん、衝動の強さも、食べる量も、罪悪感も、当時とは比にならない。病気とは言えない範疇にあると思う。
それでも、心の痛みや寂しさ、無意識な傷やストレスを食べ物で埋めようとしたこと、食べたいよりも詰め込みたいと言う感覚になったことが久しぶりで、少しおかしいなと感じている。


先週は、「居場所」としての家族を押しつけられた痛みと、自分の声を聞いてくれないままに相手の物語に書き換えられるような経験、自分の立ち位置を利用されて価値と自尊心をぐちゃぐちゃにされた経験が積み重なって、ここ最近で過食衝動が初めて出た。次の日も、そのまた次の日も、そのやりきれなさから少量のお酒と過食に走った。
また別の日は、インターン先での自殺リスク研修を受講したタイミングが良く無かったのか。1番リスク高いの自分じゃん、すごい当てはまるじゃんって笑いそうになったし、内容も重いもので安全な環境では無かった。無意識に負荷がかかって、過食に走ったのかもしれない。


自分のメンタルの不調と精神状態、そのトリガーをここまで自己分析して、その上で逃げているのも気持ち悪いなと思うけれど。


結局は、自分自身で、自分に異常というレッテルを貼って、この状態はおかしいかもしれないと心配して、頑張れない自分を正当化して認めてほしかったのかもしれない。



卒業論文、納得いくまで書き上げたい気持ちはずっとある。
テーマとしては、説明が難しいが、自身の摂食障害の体験を用いて、不可視化されている生活者としての痛みや傷つき、当事者へと社会が与え得る影響を、理論と実体験を交えながら社会へ訴えていくものだ。
内容的にも、過去と向き合う負担のかかる作業だった。
やってもやっても不安と焦りが離れなくて、辛い毎日。
それでも進んでいることを信じて、頑張り続けた。

でも、頑張れなくなってしまった。

診断は、適応障害。


この世の中は、その人なりの枠組みを作って、目の前の人を捉える。

眠れてるなら大丈夫、1食でも食べれてれば大丈夫。
そんな声は、また私の今の状態を否定し、痛みを無いものにした。
その人にとっては、慰めだったんだろう。
でも、私からすればそれも一種の傷つきとなった。
私の痛みは認めてくれない、その人が辛かった状況へと話を書き換えられている、そんな感覚だった。

環境に慣れれば大丈夫なんじゃないか。
しんどい状態ではあれど、締切が近い卒業論文、何とか書き上げないと仕方ないよね。自分も切羽詰まっていたよ。

近況や診断を伝えると、そんな言葉も返ってきた。





私の痛みは、想いは、見えない。
個人の痛みはそうやって、世間にかき消されていく。否定されていく。
この構造が創られ続けている限り、こうして取りこぼされて孤独に死んでいく、声を失っていく人は後を断たないんだろうな。
そんな社会を変えたくて、ずっと声を上げ続けて、想いを語り続けてきたけれど、なんだかもうそれも疲れてしまった。エネルギーを失ってしまった。

これがありのままの、等身大の、現状の私。
正直未来に希望は何もない。少し前まで、あれだけ夢を語っていたのに。


自分の記録として書きましたが、今どこかで社会や周りの人間関係に違和感を覚えたり、辛い思いをしていたりする人に、その感情を否定しなくていいんだよ、あなたが悪いんじゃないよって、そんな想いが副産物として届いていたら嬉しいなあと。

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