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六歌仙のなぞ(16)

◆菅原道真怨霊事件の顛末◆

 宇多法皇と時平の確執も、宇多法皇と醍醐天皇の対立も、すべては陽成院の早すぎる退位から端を発してした。それでは、菅原道真の大宰府左遷は、その後どういう影響を与えたのだろうか。

【道真怨霊と化す】
 道真が死後、雷神となってすさまじい祟りをなしたという話は有名である。そして、その祟りは、早くも彼の死んだ延喜三年[903]に始まっている。――いや、それは正確ではない。天変地異も疫病も、最初は祟りとは結びついてはいなかった。それらが道真の怨霊の仕業らしいと人々に認識されるには、数年の時が必要だった。
 しかし、それはそれとして、今は順番に「道真の祟り」を追って記述してみる。

 道真の死んだ年は大雨による災害が起こった。以降、延喜六年に雷雨と大粒の雹が降り、七年は干ばつ、八年は炎旱で多数の死者が出るなど、異常気象が続いた。
 延喜八年[908]参議藤原菅根が病死した。が、この時はまだ、道真の祟りとは認識されていなかった。それが翌年、道真左遷の首謀者、藤原時平が三十九歳の若さで急死すると、にわかに怨霊説が囁かれ始める。
 延喜十三年[913]三月、右大臣源光が狩猟の最中に沼に馬の脚をとられ、馬ごと溺死してしまうという珍事が起こった。死体はとうとう上がらずじまいであった。源光は道真が太宰権帥になったのを受け、後を継いで右大臣に昇進した人物だった。
 また、同じ年の八月、権中納言藤原清貫の肩に鴟が鼠を落とすという出来事があった。このことは不吉の前兆と受け取られた。清貫は時平と共に道真を左遷した一味だった。
 翌延喜十四年、左京が大火に見舞われ、皇太后藤原高子や、斎世入道親王の屋敷が罹災した。翌年は疱瘡が大流行する。

 実はここまでは、道真の祟りは小さな噂に過ぎなかった。しかし、延喜二十三年[923]皇太子保明親王が二十一歳で薨去すると、事態は深刻に受け止められた。『日本紀略』は次のように記す。「天下庶人、悲泣せざるはなし。その声、雷の如し。世を挙げて言ふ。管帥の霊魂宿忿の為すところなり」と。管帥とは菅原道真のことで、これは道真の祟りが初めて公式に認められた事件なのだった。
 おそらく、それ以前に起きた天災や事件も、この時からすべて怨霊の祟りに集約されていったのではないだろうか。

 これを受けて、朝廷は直ちに亡き道真を元の右大臣に復し、位階を正二位に進め、また左遷の詔勅を廃棄させた。そのうえ、元号も延長に改元した。
 だが、道真の怨念はそれでは収まらなかったのである。延長三年[925]今度は皇太子慶頼王が薨去した。わずか五歳だった。慶頼王の母は時平の娘だった。
 そして延長八年[930]六月二十六日、内裏の清涼殿に落雷があった。ちょうどその時、建物の中では雨乞いの祈祷の最中だった。愛宕山辺りから俄かに黒雲が沸き上がり、というのが何やら意味深である。
 雷は禁中の殿上人を直撃した。大納言藤原清貫は胸を裂かれて即死。あの不吉の前兆は、この時完結したのである。蔵人頭平希世は顔を焼かれ、紫宸殿でも三人の死者を出した。

 事件は醍醐天皇を打ちのめした。何しろ、目の前で公卿が落雷で死んだのだから無理もない。すっかり神経症に陥った天皇は、九月二十二日に譲位した。しかし、それでも気は休まらなかったとみえ、二十九日に崩御してしまった。
 譲位された朱雀帝も怨霊におびえ、宮殿の奥に隠れて、なかなか出られなかったという。もっともわずか八歳の少年だったのだが。

【怨霊仕掛人】
 落雷で死亡した公卿等が藤原時平の仲間だったのは、もちろんまったくの偶然だった。異常気象も火事も、起こるべくして起こった現象であり事件である。異常気象になれば当然自然災害も増えるし、疫病も流行るし、幼い親王の死も当時の小児の死亡率を考えれば、それほど珍しいことでもない。
 それを怨霊の祟りと考えるのは、当時の人がそれらの出来事を偶然の積み重ねと考えず、生きている人間の罪の因果の表れと考える風潮が一般的だったからだろう。もっと古い時代には、それは神の怒りであった。それがこの時代、政治失脚して不遇の内に憤死した人の怨念が、さまざまな災厄をもたらすというふうに変化していったのだった。
 しかし、人を怨霊に仕立てるには、何らかのルールがなくてはなるまい。天災や病気や火事など、ばらばらに起きた出来事を、まったく一つの原因――つまり怨霊の祟りに求める為には、大衆が、成程それはあの人の祟りに違いない、と納得できるような理由なり理屈がなければならない。
 そして、怨霊を出現させるには、まず誰かがそれを言い出さなければならない。それは、噂話であったり、神降ろしの託宣であったり、 形は様々であっても、まず人の口の端にのぼらねば、怨霊もまた存在しえないのである。

 道真の場合は、どうであったか。
 もちろん、誰がそれを言い出したかなど、今日その記録が残っているはずもない。しかし、まず道真を左遷させた加害者が、そのことを言い出したということはないだろう。時平にしてみれば、道真は彼の政治的立場を危うくする敵であったし、当時そういう権謀術策をもって相手を失脚させるなど、当たり前のことだったのだ。おそらく、彼自身はやましいことなどなかったはずで、ましてや、道真に悪いことをしたなどとは思ってもいなかっただろう。道真を宇多上皇から遠ざけねば、自分の方が失脚していたかもしれないのだから。
 しかし、時平はあまりにも早く、そして若くして死んでしまった。時平に追従して、一緒に道真を追いやった連中は、時平ほどの確信犯ではない。時平の権勢に乗っかっていただけである。その親分があっさり死んでしまった。権力の空白ができ、彼らの間に言葉にできぬ微妙な不安が漂ったことだろう。

 そしておそらく、この不安に付け込むように怨霊の噂を流して、それを利用した者がいる。それは誰か。
 道真の左遷に加担せず、もちろん時平派でもなく、道真の怨霊を利用して得をする者。それは、時平の弟藤原忠平である。
 道真の死亡から内裏に落雷があった年まで、二十七年もあいている。保明親王の死も、二十年も間があるのだ。普通だったら、まず道真と結びつけはしないだろう。承和の変や応天門の変などで流罪になった人に比べ、道真はあくまでも太宰権帥としての赴任であった。道真自身は地方に飛ばされたことに異常なほどショックを受けていたらしいが、時平たちから見れば、永久に都から追放した訳でもなく、任期が終わればまた都に戻れるのだし、とにかく一時的に道真を中央政治から切り離しておけば、それで目的は足りていたのである。

 忠平は権力の頂点にいた兄になり代わろうとしたのだ。兄が若死にしたのを幸いに、道真を追い落とした連中の評判を下げ、道真を悲運の人として祭り上げた。すでに二十年以上前に死んだ人間を引っ張り出し、長い時間をかけて時平一派に恐怖を植え付けていった。その際、大宰府で道真が都への未練や、みじめな境遇を詠んだ数々の和歌も、大いに利用したに違いない。
 忠平の妻は道真の姪だった。しかも、彼女は道真に実の娘同様に育てられたのである。おそらく、忠平は妻の協力も得て、怨霊作戦をしかけたのだ。
 その効果は覿面だった。落雷に神経をすり減らした醍醐天皇は、忠平に後事を委ねて譲位し、その一週間後に急死。忠平は左大臣と摂政を兼ね、幼い朱雀天皇の補佐をする立場になった。政権は完全に時平から弟の家系に移ったのだ。

◆かくして「古今和歌集」は撰上された◆

 仮名序によると、延喜五年[905]醍醐天皇の勅命により、『古今集』は撰上された。菅原道真が大宰府で死去した二年後のことである。紀友則、紀貫之ら四人の編纂者たちは、陰湿な権力闘争を横目で見ながら、古今の和歌の撰上あたっていたことだろう。
 彼ら微官の役人にとっては、高位高官の権力争いなど雲の上の出来事に違いない。しかし、彼らとて出世を望まぬものではない。公卿の中で誰がトップに上り詰めるかよく見極め、なるだけ闘争のとばっちりを受けないように気を配りながら、できれば栄華のおこぼれに与って出世の糸口にしたいと考えていたかもしれない。
 例えば紀貫之も、三條右大臣藤原定方や、その従兄弟の中納言藤原兼輔と、和歌を通じて親しくしていた頃は、一番穏やかな時期を過ごしていた。結局、二人との交際はあまり出世にはつながらなかったけれども、『古今集』の編纂者という名誉を受けることができた。
 しかし、貫之が土佐国に赴任中に二人が亡くなると、彼らの作った歌人や文人のサロンも自然消滅してしまう。貫之は次の出世の糸口を探さねばならなかった。『貫之集』には、太政大臣藤原忠平や、忠平の息子の左大臣実頼、右大臣師輔に取り入り、何とか職を得ようとする和歌が収められている。
 失業詩人貫之の歌は悲惨で涙ぐましい。既に世は藤原氏の天下。律令制が崩れ、かつてのように個人の力量だけで出世できる時代は去っていた。古代の名族紀氏も、藤原氏に媚を売りへつらいながら、漸く公家の末席にへばりついて生きていた。
 そうした中、藤原氏に敢然と立ち向かい、才気と実力で出世し、ついに右大臣までのぼりつめた菅原道真の栄光と転落のドラマを、貫之らはどのような思いで見ていただろう。

 『古今集』はこのような時代の空気の中で編纂されている。過去の和歌の集成ではあっても、決して今現在の世間と断絶してはいない。菅原道真の挫折は、紀貫之ら『古今集』編者の意識の底に、何らかの影響を与えたとみても不思議はない。
 仮名序は云う。「いまの世の中、色につき、人の心、花になりけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に埋もれ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には、花すすきほに出だすべきことにもあらずなりにけり(いまの世の中、表面的な美しさばかり重んじ、人の心は派手になって、あだっぽい歌やその場限りの言葉ばかり。和歌は一部の好色家に埋もれ、誰も顧みぬものになってしまい、公の場に出せるようなものではなくなってしまった)」
 これは、和歌の現状を嘆いた文だが、それだけでなく、朝廷社会の堕落と腐敗を嘆いているのではないかと思う。そして、それは貫之自身の自嘲でもあった。歌人としての誇りと自信を持ちながら、一方で官職を得るために、まったく芸術とは正反対の俗っぽい歌を奉ってわが身を売り込まねばならない悲しみ。「はかなき言のみ」の歌を詠っているのは、他ならぬ己自身なのである。
 仮名序は貫之の悲憤と反省と、そして和歌の将来への希望が込められていると思う。いにしえの和歌の霊力を復活させ、没落貴族の誇りと意地を後世に伝えようとしたのだ。
 そして、六人の歌人に貫之の思いを仮託したのだ。その短い文章の中には、貫之の言いたかったこと、言えなかったことが詰まっているのである。

                              (了)


 今回で、「六歌仙のなぞ」は完結です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

●参考文献リスト

「古今和歌集」 奥村恆哉 校注        新潮日本古典集成
「国史大系(続日本後紀)」          吉川弘文館
「国史大系(日本文徳天皇実録)」
「国史大系(日本三代実録)」前、後
「国史大系(類従三代格)」前編
「今昔物語集」本朝仏法部下巻 佐藤謙三 校注 角川日本古典文庫
「円仁」人物叢書 佐伯有清          吉川弘文館
「円珍」人物証書 佐伯有清
「伴善男」人物叢書 佐伯有清
「群書類従系図部集」第七巻          続群書類従完成会
「百人一首の作者たち」 目崎徳衛       角川選書142
「百人一首物語」 福田清人          偕成社
「小野小町/落魄の真相」 高橋克彦 歴史街道  PHP研究所
「小野小町攻究」 三好貞司          新典社
「小野小町追跡」 片桐洋一          笠間書院
「小野小町の一生」 和泉竜一         県南民報社
「人麻呂伝説」 大和岩雄           白水社
「日本にあった朝鮮王国」 大和岩雄      白水社
「鬼と天皇」 大和岩雄            白水社
「遊女と天皇」 大和岩雄           白水社
「天狗と天皇」 大和岩雄           白水社
「木地屋の世界・漂泊の山民」 橋本鉄男    白水社
「黄金と百足・鉱山民俗学への道」 若尾五雄  人文書院
「決定版 忍術のすべて」歴史読本       新人物往来社
「伊勢物語」 渡辺実 校注          新潮日本古典集成
「竹取物語」 野口元大 校注         新潮日本古典集成
「歴史誕生」12(応天門炎上す)        角川書店
「天皇家怨霊秘史」歴史読本臨時増刊      新人物往来社
「さまよえる皇子・天皇家の伝説」歴史読本   
「聖なる魔界『比叡山』」歴史読本
「日本史謎の人物101人」別冊歴史読本
「神功皇后伝説の誕生」 前田晴人       大和書房
「平安京」日本歴史シリーズ3         世界文化社
「歴史不思議物語」 井沢元彦         廣済堂
「逆説の日本史4」 井沢元彦         小学館文庫
「帋灯 柿本人麻呂」 柿花仄         東京経済
「かぐや姫の光と影」 梅山秀幸        人文書院
「宇治拾遺物語」 大島健彦 校注       新潮社
「六歌仙前後」 高崎正秀           青磁社
「古事記」 倉野憲司             岩波文庫
※ここに挙げた資料は主要なものだけです。


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