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六歌仙のなぞ(14)

◆二條后と業平、遍照、康秀の関係◆

 二條后(藤原高子たかいこ)は藤原良房の兄、長良の娘だった。基経は高子の実の兄である。良房は後を継がせるべき男子に恵まれなかった。また、清和天皇に入内させる娘も必要としていた。そこで良房は基経を養子に迎え、その妹を入内させたのである。
 兄、基経は良房の期待に見事にかなった跡継ぎだった。良房が藤原氏として初めての摂政太政大臣なら、基経はそのあとを受け継いで、藤原北家を摂関家として確立した人物だった。
 それでは、高子はどういう女性だったのか。彼女は政治の具として清和天皇に嫁がされた。後は天皇の御子を産むことだけが、彼女に課された役割だった。良房や基経にとって、彼女はそれだけの存在だった。しかし高子は二人の従順な人形でいるほど、おとなしい性格の人ではなかった。義父と兄に反抗したのだ。

【在原業平との駆け落ち事件】
 高子が入内する前、在原業平と恋仲になり、二人して駆け落ちした有名な事件があった。その辺りのいきさつは『伊勢物語』にあるが、ことはすぐに露見して、高子は基経、国経ら兄たちの手によって連れ戻された。業平は基経たちによって髻を切られ、それが原因で東国に旅に出たというが、どこまで史実かは分からない。
 良房はその時、清和天皇が元服を済ませたら、すぐにでも高子を入内させるつもりでいたから、業平の行為は許せぬものがあっただろう。だが、業平如きを失脚させるほどのこともなかったから、彼が都から姿を消しただけで満足した。

 業平はどこまで本気で高子を愛していたのだろうか。彼は藤原北家を、特に良房を憎んでいた。それは惟喬親王のこともあるし、朝廷の政のすべてが藤原氏の思うままに牛耳られていることへの反感もあったからだ。業平が高子に接近し、館から連れ去ろうとしたのも、藤原氏に対する反抗心から出た行動かも知れない。しかし、『伊勢物語』の中で、「昔男」こと業平は高子のことを、「本意にあらでこころざし深かりける人(不本意ながら愛してしまった人)」と、思っていたという。
 高子にしてみれば、業平は最初の男ではなかったか。清和天皇に嫁ぐまで、厳重に守られていた箱入り娘である。その警戒をかいくぐって通ってくる業平を、高子は本気で想っていたかもしれない。

 それにしても、事件はたちまち評判になってしまったというのに、それでもなお高子を入内させてしまった良房の図々しいまでの強引さ。しかも、天皇よりも八歳も年上なのである。天皇の心境はどうだったのだろう。既にほかの男の手のついた年上の女性と知らなかったのだろうか。そのようなことは、知っていてもいなくても関係なかったのだろうか。
 その後、高子は陽成天皇をはじめ、次々と御子を産む。一方、皮肉なことに、良相の娘の多美子には、一人も御子ができなかった。

【高子と明子】
 高子は入内する前、いとこで良房の娘の明子あきらけいこ(染殿后)に仕えていたことがある。貞観四年から五年のことと思われる。皇太后のそば近くで過ごすことで、高子は後宮の生活というものについて、多くを学んだことだろう。そして、天皇の妻という立場についても、彼女なりの感想を持ったことだろう。
 夫文徳帝を失い、今は皇后の役割を終えた明子は、本来ならもっとゆったりと解放された生活を送ってもよさそうなものだった。ところが、この時すでに彼女の精神は病に蝕まれていたのである。何が明子の心を狂わせたのか。身近にいた高子は、その原因について何か思うところがあったのではないか。
 高子はいとこの哀れな様子を見るにつけ、女を政治権力の道具としか考えない叔父や兄たちに、反感を募らせたのではないだろうか。彼女の反骨は、皇后になった後も続くのである。

【高子のもとに集う人々】
 皇后高子は宮廷でどのような活動をしていたのか。実は、高子の周りには興味深い人物が集まっていた。
 まず、文屋康秀である。彼は、陽成天皇(貞明親王)が皇太子だったころ、高子にしばしば歌を贈り、官位昇進を願っている。その時期は、康秀が三河掾に任じられた貞観十五年より以前、貞観十一年から十四年の間に絞れる。微官の役人に過ぎない康秀が、こうしたあからさまな願い事を高子にできたのは、康秀が東宮に仕えていたか、高子と間接的にもやり取りをしやすい役職にあったためと考えられる。
 次に、遍照。遍照は貞明親王の護持僧だった。彼を護持僧に推したのが高子であった。
 また、陽成天皇になってから、在原業平が蔵人頭になっている。蔵人頭といえば天皇の秘書官長ともいえる、重要な役職である。しかも、この官に業平を推したのが他ならぬ高子だったのだ。かつて、恋人同士だった二人。兄たちの手で引き裂かれ、有無を言わさず女御にさせられた高子は、どういう思いで業平を我が子の側近に選んだのだろうか。
 康秀、遍照、業平と、六歌仙のうち三人が高子の側にいた。しかも、遍照も業平も、藤原氏の為に人生を狂わされた人なのである。こうした人物を、自分や自分の息子の側に置いた高子は、いったい何を企んでいたのだろうか。

◆陽成天皇の退位◆

 清和天皇はまだ物心もつかない頃に皇太子になり、わずか八歳で天皇の位についた。その実権は元服を終えた後も祖父の良房に握られていた。天皇一人では何事も決定できない、お飾りのような立場だった。
 天皇自身はこれをどう思っていただろうか。政治の実権が自らに無く、良房、基経親子に握られていることに、不満が無かったわけではなかろう。だが、天皇に何ができよう。
 多くの女性をあてがわれた天皇は、それと同じくらい多くの子をもうけたが、天皇自身はあまり丈夫な方ではなかったらしい。貞観十八年[876]、二十七歳で貞明親王に譲位し、その翌年に崩御している。

【陽成天皇とその仲間】
 『三代実録』を読む限り、陽成天皇は気性が荒く、乱暴な青年帝王だった。無類の馬好きで、禁中の閑所で平気で馬を飼い、馬の扱いが上手いというだけで、さして身分の高くもない、本来ならば禁中に上がることも許されないような者を側に召したりした。「はなはだ不法多し」と、記されている。今でいえば、皇居に不良グループがたむろしていたというところか。その中心が陽成天皇だった。
 このような有様を太政大臣の基経はどう思っていたのだろうか。おそらく、なるべく見て見ぬ振りをしていたと思われる。病弱な清和天皇と違い、陽成天皇は活発で、元気が有り余っていた。こうした青年を無理に抑え込んで、もしその持て余したエネルギーが政治に向いてしまっては、かえって厄介なことになるからだ。

 ところが、思いもよらぬ事件が起こってしまった。陽成天皇が、日頃側近くに仕えさせていた源益を殺してしまったのである、事件の経過を追ってみよう。
 元慶七年[883]十一月十日、散位十五位下源朝臣蔭の息子の益が、殿上に侍しているときに、陽成天皇のお手打ちにあって死んだ。このことは公に秘して、外部に漏れないようにした。
 十一月十三日、大原野の祭りを中止した。これより以降、その他の祭祀もすべて停止した。内裏で死人が出たことによる穢れのためである。
 十一月十六日、新嘗祭を中止して、健礼門前において大祓を修した。これも、内裏で死人が出て、諸祭祀が停止されたことによる。
 翌元慶八年二月四日、陽成天皇退位。
 『三代実録』によると、源益は、陽成天皇の乳母、従五位下紀朝臣全子の息子だった。益と陽成天皇は乳兄弟だったのである。源益の母親が紀氏だったということが注目されるところだ。

 陽成天皇は、なぜ益を殺してしまったのだろうか。いくら粗暴な性格だからと言って、乳兄弟である。いつも側に仕えさせていたのだから、普段は仲が良かったはずだ。何かよほどのことがあったのだろうか。その辺りの事情は全く不明である。
 基経はこの事件に関連して、陽成天皇の周辺にいた者たちを、皆追い出してしまうのである。『三代実録』を見てみよう。


 時に、天皇は馬を愛好されていた。禁中の閑所において、こっそり馬を飼っていたのだ。右馬少允小野清如は馬の世話が得意で、また権少属紀正直は馬術に巧みであった。
 天皇は時々、彼らを禁中に召した。(本来、彼らの身分では、禁中に上がることはできない)蔭子藤原公門も禁中の階下に侍り、いつも駈策していた。清如らの所行には、はなはだ不法なことが多かった。
 太政大臣(基経)はこのことを聞き及び、にわかに参内して、宮中にはびこる「庸猥の群少」を駆逐した。清如等は、その最も中心的なグループだった。


 基経は「不良グループ」を陽成天皇から遠ざけ、その上天皇を退位させてしまったのである。

【陽成天皇は暗愚か】
 しかし、本当に陽成天皇は粗暴なだけの暗愚な天皇だったのだろうか。
 元慶八年[884]十七歳の若さで退位した天皇は、その後陽成院として天暦三年[949]に崩御するまで、実に六十五年も生きたのだった。当時としてはかなりの長寿である。退位してからの陽成院の動向については多く伝わっていない。わずかに、百人一首の中に「つくばねの峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」という歌が伝わっている。

 「源益殺人事件」が記された『三代実録』は、陽成院がまだ存命中に成立した。したがって、事件の記述について、それほど嘘があるとは思われない。しかし、書かれていないことが多すぎるのだ。
 事件後に基経は陽成天皇の不良グループを粛正しているが、それによって天皇を退位させるほどのことであったのだろうか。表向き、天皇は病気がちになり、国政をとり難く神器を守り切れないという書を太政大臣基経に渡して、退位したということになっている。けれども、実際は陽成天皇は頑健な人で、八十二歳まで生きたのである。おそらく、この書状は、基経が天皇に書かせたものだろう。陽成天皇はどのような思いで、これをしたためたのだろうか。

 基経がこのように厳しい対応をしたのは、陽成天皇が政治に目覚めた為ではないだろうか。それまでは子供だったから、基経は摂政として公然と権力を振るうことができた。しかし、天皇は元慶六年に元服している。威勢の良い天皇は、これを機に「朕が国政をとらねば」と思ったのではないか。そして、その背後に母高子が控え、高子によって選ばれた蔵人頭在原業平、護持僧遍照、そして文屋康秀がいた。
 おそらく基経は、彼らを牽制することも念頭に入れていただろう。業平は天皇が譲位してしまえばお役御免である。遍照にしても然り。ただし、遍照は出家だし、比叡山に対して基経は寛容であった。
 文屋康秀が三河の任地から帰京してからの動向はわからない。しかし、歌人としてそれなりの名声があったとされるだけに、高子を中心とするサロンに出入りしていたことは考えられる。元慶九年に縫殿助を任じられているが、これは陽成天皇退位による異動と思われる。

 陽成天皇の後を継いだのは、光孝天皇だった。光孝天皇は仁明天皇の皇子で、即位した時すでに五十四歳だった。陽成天皇にはこの時まだ皇子がいなかった。皇子が産まれたのは退位の後である。
 光孝天皇は、基経に政治のすべてをゆだねてしまったし、自分の皇子をみんな臣籍降下させてしまった。そういう約束で、天皇になったのだろう。
 逆を云えば、陽成天皇は光孝天皇のように、おとなしく基経の言うなりになっていなかったということだ。そして、それを陰からささえていた張本人こそ、高子であったと思うのである。ともかく、高子と基経は兄妹でありながら、まったく仲が悪かった。

◆二條后密通事件◆

【二條后と善祐】
 陽成天皇は退位して二条院に遷った。それに伴い、皇太后(高子)も宮中の常寧殿を去り、二条院に遷った。高子が「二條后」とよばれるのは、このことからである。
 こうなってしまっては、高子も手も足も出ないはずである。ところが、これで納まりはしなかった。

 寛平八年[896]九月二十二日、二條后は后位を剝奪され、ただの藤原高子に戻った。東光寺(高子の建立)の祈禱僧善祐と、不義密通したというのがその理由であった。善祐は伊豆に配流された、と『扶桑略記』は記す。
 寛平八年といえば、すでに基経は死に、実権は子の時平が握っていた頃だ。
 それにしても、この時高子は五十五歳。当時としては、すでに老境に入っている。それが一介の祈祷僧と密通したというのだ。兄が死んでも、なお、藤原摂関家に対して、彼女は抵抗を続けていたのだろうか。それとも、ただ寂しさを紛らわせたかったのだろうか。
 私はその両方があったと思う。彼女が最後まで抵抗したしるしに、このような目に遭っても、ついに死ぬまで出家しなかったということがある。ただ、密通の相手が善祐であったかについては、いささか疑問が残る。これまでも、高子は反藤原氏の人々を周りに寄せ、あからさまな反抗を示していた。今回もそれだとすれば、善祐はあまりにも役者不足である。もっと、公にできないほどスキャンダラスな大物と、高子は関係していたのではないだろうか。
 もちろん、善祐との噂が以前から無いわけではなかった。それより七年前の宇多天皇の日記に、高子が善祐の子を身ごもったという噂が記されているからである。しかし、それならば、なぜ七年も放っておかれたのか。いや、なぜ七年もたって、このような処分がくだされたのか。

 おそらくは、皇位継承の問題に絡み、高子の周辺が騒がしくなったということではないか。時平の権勢を妬む者は多い。皇太后高子が実家である藤原北家を憎んでいることは周知のことで、それを頼りに集まってくる者もいたことだろう。
 それで、時平は高子の態度を戒める目的で、たまたま二条院に出入りしていた善祐をスケープゴートにしたのではないだろうか。更に、皇太后の地位を取り上げ、実権も奪ってしまった。ここまで厳しく臨んだのは、今後高子が政治工作できないようにするための処置だったのだろう。
 女として、高子ができることはここまでであった。延喜十年[910]三月二十四日、藤原高子薨去。六十九歳。高子の皇太后位が本位に復されたのはそれから三十三年後、天慶六年[943]のことだった。

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