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六歌仙のなぞ(4)

第二章「六歌仙の時代」


◆藤原氏の栄華と他氏排斥◆

 六歌仙の生きた時代。――それは、藤原氏が他の古代からの名族を退けて、朝廷の権力を独占した時代であった。

【怨霊を生む都】
 桓武天皇の下で、都が長岡から京都へ移されたのは、延喜十三年[794]の事だった。桓武天皇は腐敗した政治と社会不安を打破するために、遷都の他にも東北征伐や、遣唐使の派遣などの国家事業を大々的に行った。坂上田村麻呂が蝦夷を平定し、空海や最澄が遣唐船で海を渡ったのがこの頃である。
 だが、こうした華々しい政治の陰では、血なまぐさい抗争が繰り返されていた。桓武天皇自身、弟の早良さわら親王を殺している。早良親王は桓武天皇の皇太子だった。それは、父光仁天皇の決めたものだったが、桓武天皇は息子の安殿あて親王に位を譲りたかったのである。

 その頃、桓武は長岡京を造営中だった。この工事を担当していた藤原種継が暗殺された。そして主犯とされたのが、中納言大伴家持だった。家持は東宮大夫だったので、当然、東宮(皇太子)の早良親王も疑われて、乙訓寺に幽閉された。早良親王は無実を訴え続け、桓武天皇に抗議するために食を断ち、とうとう餓死してしまった。
 種継暗殺が、本当に家持らの仕業だったのかはわからない。まるで、事件が起こる事を予測していたかのように、犯人らはただちに捕らえられ、すぐさま刑は執行されたのだ。だが、首謀者とされる大伴家持は、事件の起こる一か月前にすでに死んでいる。しかも、家持は陸奥の多賀城にいたのだ。謀反が企めるはずがない。
 このことから、事件は大伴氏と早良親王を政界から追い出すための陰謀と見ることもできる。早良親王が無実であったことは確かのようである。桓武天皇は後に早良親王の怨霊におびえ、崇道天皇と諡号しごうして、神社に神として祭ったのである。

 実は長岡京に遷都したのも、怨霊が原因だったのだ。それは光仁天皇の皇太子擁立にまつわる事件である。まず、光仁天皇は藤原百川らによって天皇になれたことを頭に入れておいていただきたい。光仁は井上内親王を皇后とし、その子他戸親王を皇太子とした。ところが、二人は突然廃位されてしまうのである。理由は井上皇后が魘魅えんみ(呪詛)を行ったからというものだった。二人は幽閉され、そしてなぜか同じ日に死んでいる。自殺か暗殺か、それはわかっていない。
 この事件の裏には、やはり百川がいたらしい。なぜなら、井上皇后、他戸皇太子を廃する決定を強くすすめたのが、百川だったからである。新しく皇太子に立ったのは、山部親王(桓武)だった。百川は山部親王のバックについていたのだ。それは、他戸親王のバックについた藤原北家と、百川ら藤原式家の権力争いでもあった。たまたま、北家の当主の藤原永手が死んだので、百川にチャンスが訪れたのである。

 百川のお陰で天皇になれた桓武だったが、その後天変地異が打ち続き、百川の兄が急死して、それが井上親子の怨霊の祟りという噂が囁かれ出した。そして、百川自身も四十八歳の若さで急死。皇太子安殿親王は病に倒れ、桓武天皇も悪夢にうなされる毎日が続いて、ついに都を捨てる決心をしたのだった。
 こうして、長岡京造営に取り掛かったのだが、これも種継暗殺でけちがついて中止され、平安京に新たに仕切り直しとなったわけなのだ。
 遷都で平城京の旧勢力とも縁を切って、気分を一新しようとした桓武天皇であった。が、憤死した弟早良親王が怨霊となって悩ませる。その上、井上皇后と他戸親王の怨霊まで、新しい都に追いかけてきた。夫人、生母、皇后があいついで死んだ。天災が続き、疫病で多くの人が死んだ。これらが皆、怨霊の祟りとされたのだ。
 桓武天皇が蝦夷平定や遣唐使の派遣など、国家事業に力を入れたのも、こうした悪夢を振り払うためだったともいわれている。いずれにしても、心にやましいことが多すぎたのだ。

早良親王を祀る崇道神社。いつ訪れても薄暗い…。

【藤原薬子の乱】
 まるで怨霊に取り殺されたように桓武天皇が崩御した後、安殿親王が即位して平城天皇となった。しかし、平城天皇は体が弱く、しかも気弱な天皇だった。病身の理由を早良親王の祟りといわれて、ますます気鬱になってしまったようだ。即位して真っ先に行ったのが、早良親王の供養のための寺の建立だったということからも、よほど怨霊にはこたえていたのだろう。本来なら、早良親王こそ天皇になっていた人だったのだから。

 ところで、このような不穏な噂を振り撒いたのは誰だったのだろうか。この時代、怨霊の存在は強く信じられていた。天変地異や人の死は自然の営みのひとつであって、本当は怨霊の仕業などではないのだが、この時代は国を治める天皇が一種の祭主の役割も務めていたので、その権威が下がると、こうした怨霊、ないし御霊と呼ばれる神が祟りをなすと考えられていたのである。
 だからこそ、怨霊の噂は、逆に大きな威力を発揮できたはずである。こうした噂に実際の不幸が続けば、当然世間の不安をあおることができるし、天皇に相当なプレッシャーをかける事もできるのだ。
 実際、平城天皇はプレッシャーに耐えられず、病身を理由に皇位を弟の嵯峨天皇に譲って、自分は平城京に引っ込んでしまった。わずか四年の、短命政権だった。

 次の嵯峨天皇は、空海や橘逸勢はやなりと共に「三筆」と呼ばれるほどの能書家で、漢詩にも巧みな文化人だった。それだけでなく、政治的にも優れた人だったようだ。
 嵯峨の側近には藤原冬嗣がいた。冬嗣は藤原北家の出身である。式家の百川が死んでから、北家も巻き返しの機会を狙っていたのだ。そして目を付けたのが、神野親王(嵯峨天皇)だった。怨霊のデマゴギーを盛んに流したのも、もしかすると冬嗣の仕業かもしれない。
 嵯峨天皇は、新しく蔵人所を設けている。蔵人とは天皇の身近にいて用向きを務める職のことで、機密文書や諸訴のことも扱う重要な役を担っていた。その最初の頭には、冬嗣が選ばれた。嵯峨天皇に一番近い所に、彼は常にいたのである。

 一方、旧都平城京でひっそり暮らしていたはずの平城上皇に、変化があらわれた。譲位して肩の荷が下りたせいか、平城上皇の気鬱はいつかどこかへ消えてしまっていた。そうなると現金なもので、急に政権への欲望が湧いてきたのだった。たった四年で、弟に位を譲ってしまったのが惜しくなったのであろう。
 平城には愛人がいた。藤原薬子くすこという。彼女は、あの暗殺された種継の娘であった。薬子には藤原縄主というれっきとした夫がいた。それが、娘が平城の女官になったのが縁で、寵愛を得るようになったのだ。平城の薬子に対する入れ込みようはかなりのもので、ほとんど言いなりの状態だったらしい。兄の藤原仲成と共に、陰で平城上皇を意のままに動かしたのだった。
  例えば、大同四年[807]伊豫親王が謀反のために捕まり、幽閉された上に自殺に追い込まれているが、これも藤原宗成が伊豫親王を讒言し、薬子が平城を動かしたのが原因だった。また、『続日本紀』に、父種継の暗殺事件の記事が削除されているのに不服を申し立て、これを元のように書き入れさせている。もちろん、仲成の昇進は思いのままであった。
 こうした薬子の行為は、ひとつには式家の復興という狙いがあった。平城が四年で隠居してしまっては、彼女の目論見も頓挫してしまう。そこで、病気も治ってすっかり元気になった平城上皇をそそのかしたのだ。
 平城上皇も、すっかりその気になってしまった。上皇は隠居といえども身分的には天皇と上下の差はない。朝廷を差し置いて、勝手に宣旨を発令したりした。
 嵯峨天皇も黙っていなかった。このままでは二つの朝廷ができて、政治が混乱してしまう。ついに坂上田村麻呂を先頭に軍隊を投入し、平城京を取り囲んだ。
 さしもの平城上皇も観念した。弟がここまでやるとは思っていなかったのだろう。上皇は剃髪してしまった。上皇の皇子高岳親王は皇太子を廃嫡され、代わって嵯峨天皇の弟大伴親王(淳和)が立てられる。仲成は射殺、薬子は服毒自殺して、この事件は幕を閉じた。弘仁一年[810]のことである。

 嵯峨天皇は平城と薬子の一派を壊滅させるとともに、平城の血を引く高岳親王をも廃することに成功したのだ。この事件を機に冬嗣は躍進した。しかし、まだまだ藤原氏の暗躍は続く。

【承和の変】
 嵯峨天皇は弘仁十四年[823]、弟の淳和天皇に譲位して上皇となった。淳和天皇の時代は十年ほどだったが、その在位中は特に大きな事件もなく過ぎた。そして、嵯峨天皇との約束通り、嵯峨の皇子正良親王が元服の歳になった時に譲位した。これが仁明天皇である。仁明天皇の皇太子には、逆に淳和天皇の皇子恒貞親王が立てられた。

 事件は仁明天皇の在位中に起こった。承和九年[842]、七月十五日。淳和、仁明時代を通じて権力を振るった嵯峨上皇が崩御した。その二日後、橘逸勢はやなり伴健岑とものこわみねが謀反を起こそうとしているという讒言が、橘嘉智子皇太后(嵯峨上皇の妃)のもとに届いた。讒言したのは平城天皇の皇子阿保親王だった。内容は、逸勢と健岑が恒貞親王を皇位に就かせようと画策しているというものだった。既に皇太子になっている人を、皇位に就けようとするとは、何とも奇妙な話である。
 実は、恒貞親王の母は藤原氏ではなかったために、何としても藤原氏出身の母から生まれた皇子を皇太子にするための、陰謀だったらしいのである。逸勢と健岑は流刑にされ、逸勢は護送の途中で死亡した。おそらく殺されたのだろう。

 この結果、恒貞親王は皇太子を廃され、その代わりに、冬嗣の娘藤原順子が生んだ道康親王が皇太子になった。
 この「承和の変」で権力を握ったのが、冬嗣の息子義房だった。良房と嘉智子皇太后が、裏で仕組んだことだった。おそらく、阿保親王も良房と裏でつながっていたのだろう。

【応天門の変】
 道康親王が即位して文徳天皇になり、良房の権力も頂点に達する。天安一年[857]、良房は太政大臣になる。この頃になると、藤原氏の中でも、良房の北家のみが優勢で、他家を寄せつけないまでになっていた。いわんや他氏においては、種継事件で大伴氏を。承和の変では橘氏を。そして、清和天皇擁立の時には紀氏を排除して、着実に政権の中心から消していったのである。

 その清和天皇は、生母が良房の娘明子あきらけこだった。皇太子になったのは何と生後八か月の赤ん坊の時で、即位したときもまだ八歳の子供。もちろん、政治が執れるはずもない。実際は良房が政治を動かしたのだ。良房は人臣で初めて摂政になったのである。
 そんな我が世の春を謳歌していた良房の前にライバルが現れた。しかも、意外と身近なところにそいつはいたのである。
 それは、弟の良相よしみと、臣籍降下した嵯峨源氏だった。嵯峨源氏は臣下に降ったとはいえ天皇の子供、侮りがたい存在だった。中でも、左大臣源信は良房に次ぐ地位にいた。また、弟良相は正二位右大臣というナンバースリーの地位にあって、娘の多美子を清和天皇の後宮に入れていた。
 ところが、良房には清和天皇に嫁がせるにふさわしい娘がいなかった。もし、多美子が皇子を生んで、その子が皇太子にでもなったら、良相はその外戚。良房の権力は弟に取られてしまうのだ。清和天皇も貞観六年[864]に元服している。良房は六十歳。後がなかった。

 不穏な空気は貞観四年[862]頃からあった。その頃、疫病に良房は倒れ、重体説もささやかれていた。その時、源信、融、勤らの謀反の噂があったのだ。だが、貞観六年九月、良房が全快して朝政に復帰すると、噂も立ち消えになってしまった。
 そして貞観八年[866]、閏三月十日の深夜、突如、皇居朝堂院の正門、応天門から火の手が上がる。応天門は消失してしまった。平安京に遷都してから七十二年。宮殿の一部が焼けたのはこれが初めてだった。
 その半年後、源信が放火の疑いで逮捕された。通報したのは大納言伴善男である。伴善男は没落した大伴氏(大伴氏は、淳和天皇が諱を大伴といったので、同じ名を憚って「伴」と姓を変えていた)の出身で、異例のスピード出世をした能吏であり、良房の右腕だった。
 善男は良房のためを思って信を訴え、追い落とそうと考えたのかもしれない。善男にとっても、信が犯人になれば、願ってもないことになったはずである。信が左大臣の位を失えば、良相がそのポストに就き、順送りに自分も右大臣に昇進することができるのだから。

 ところが、良房は信を釈放し、代わりに善男を真犯人として捕まえてしまう。善男は拷問を受けた挙句、伊豆に流刑にされてしまった。良相が自分の次に来るよりは、温厚な信を左大臣にしておく方がよいと考えたのだろう。自分のために働いてくれた善男だが(藤原氏でもないことだし)、捨て駒にしてしまったのだ。
 この事件でショックを受けた良相は、翌年にあっけなくこの世を去る。さらに善男も、翌々年に伊豆で没した。その上、被告の信まで同じ年に薨去してしまったため、もはや良房の対抗馬は誰もいなくなった。
 良房は、弟長良の息子基経を養子に迎え、自分の後継者とした。基経は妹の高子たかいこを清和の妃として入内させ、高子は陽成天皇を生んだ。
 良房の憂いはなくなったのである

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