見出し画像

ドラキュラとゼノフォービア━7

 コレラが流行した19世紀のイギリス。当時伝染病の原因はどうとられていたのだろうか。

 丹治愛氏著『ドラキュラの世紀末~ヴィクトリア朝外国恐怖症ゼノフォービアの文化研究』によると、「嗅覚革命」というものがあったという。

瘴気恐怖

 「嗅覚革命」とは18世紀後半にアラン・コルバンの『瘴気と黄水仙』(邦題『においの歴史』)という本の中で出てくる言葉で、それによると、その頃から悪臭に対する社会の見方が変わったのだという。

1750年頃、プリングルとマクブライドの行った腐敗物質に関する研究によって、いわゆる気体科学なるものが台頭しはじめ、都市病理学らしきものが現れてきて、そこから、これまでにない不安感がかきたてられてきた。(山田登世子 他訳)

 都市に住む人間が排出する様々な汚物から発する腐敗した悪臭としての「瘴気(miasma)」が、激しい恐怖の念を引き起こした。それを吸い込むことは生命の均衡を崩壊させる━━つまり、病気の原因になるというのだ。

 こうして18世紀後半、はじめに意識の高いエリート層から生命体を腐敗へ導く瘴気に対し、「嗅覚的警戒心」が急速に高まった。悪臭に対する許容度が厳しくなったのだ。これがコルバンのいう「嗅覚革命」なのだ。

 例えば、換気が推奨された。また、ある種の芳香剤が、樟脳などと共に消毒薬の役割を持つと考えられ、治療的効果もあるといわれた。
 芳香剤としては、黄水仙のような「生命溢れた春の花」の香りが好まれ、麝香のように「腐敗性のある嚢」からとれる動物性の香りは嫌われた。
 またタバコも予防的効果があるとみられていたという。

 H・メルヴィルの『白鯨』(1851)に、こんな箇所がある。

コレラ流行時には、樟脳をしみこませたハンカチを口に当てて出歩く人がいる。それと同時に、スタップの煙草は、あらゆる人生の苦難に対して一種の消毒剤の作用を果たしていたのかもしれない。(丹治愛 訳)

 イギリスのジャーナリスト、ヘンリー・メイヒューは『コレラ探訪記』(1849)で、ロンドンのテムズ川南岸のバーモンジーの貧民街をルポルタージュしている。ここは当時「コレラ地帯」として悪名高い場所だった。

この3か月以内にコレラが原因で生じた1万2800の死のうち、6500はテムズ川の南岸で起こっている。そしてランベスとバーモンジーほど、この怖ろしい数字に貢献している地区はない。
(中略)
とくに最後にあげた地区〔バーモンジー〕をあえて訪れたものは、この瘴気に満ちた地区における疫病の惨害を不思議に思うことはないだろう。
というのはそこは、北と東は汚濁と熱病に接し、南と西は貧困と不潔と襤褸と疫病に接しているからである。ここには、いわばコレラの首都、ロンドンのジェソレが存在している。それがすなわち、ジェイコブ島━━共同下水溝によって隔離された一区画の土地なのである。(丹治愛 訳)

 バーモンジーが瘴気に満ちたコレラの首都と表現されている。また、そこがロンドンのジェソレとメイヒューは書く。ジェソレとは、コレラの発生源とされたインドの地名。ロンドンのジェソレという表現は、そこがロンドンのコレラの揺籃の地だというわけだ。

 そして、このバーモンジーにドラキュラの隠れ家の一つがあった。
 ドラキュラの潜む場所はどこも吐き気のするような腐敗臭に満ちている。ストーカーはあえてバーモンジーを選んだのは、コレラ恐怖を思い起こさせる瘴気を発する土地、吸血鬼とコレラの恐怖との共通性からだったかもしれない。

細菌恐怖

 疫病の原因が瘴気という腐敗ガスで出ないことは、今日では当たり前のように知られている。実は19世紀後半には、病原菌の発見と研究が大いに進むのである。

 ウィリアム・バッドとジョン・スノウの研究で、まずバッドが顕微鏡でコレラ汚染地域の水の中に、他の地域にはない特徴的な生物を検出。この生物が口からは入り、腸内で繁殖するときにコレラになることを発見した。

 一方スノウは、ロンドンに給水している8つの水道会社の取水場所と給水地区の住民のコレラ死亡者率の関連性をつきとめ、コレラが水の汚染が原因で伝播することを発見。そして1854年8月末から9月上旬の10日間に、ゴールデン・スクウェアの半径230m内の地域で、500人以上のコレラ死亡者が出た際、その感染源がブロード・ストリートの井戸と特定した。

ジョン・スノウが調査したゴールデン・スクウェアの周辺地図
Wikipediaより
●点がコロナ死亡者が出た地点
×印が井戸の位置
ブロード・ストリートは地図のほぼ中央にある通り

 こうして細菌説が注目されるようになったが、バッドとスノウの研究では、はっきりとコレラ菌が起因となってコレラが発症することは証明できていなかった。
 それが証明されたのは1883年、ロベルト・コッホによってだった。

 すでにコッホは1876年、炭疽病が炭疽菌を病因とすることを突き止め、微生物が病気を引き起こすことを証明していた。
 それからストーカーの『ドラキュラ』が発表される1890年代にかけて、怒涛のように病原菌の発見が相次ぐ。

 1880年のマラリア原虫(ラヴェラン)と腸チフス菌(エーベルト)。
 1882年の結核菌(コッホ)。
 1883年のコレラ菌(コッホ)とジフテリア菌(クレプス)。
 1894年のペスト菌(イエルサン、北里柴三郎)。
 1897年の赤痢菌(志賀潔)とマラリア菌(ロス)。

 そして発見と並行して、病原菌を弱毒化して人工培養してワクチンを製造する技術も、パストゥールによって開発された。それにより、予防医学が発展することになる。

 こうして伝染病細菌説は瘴気説にとって代わることになる。人間だけでなく家畜用のワクチンも開発され、教養の高いエリート層だけでなく、大衆の間にも細菌説は広く知られるようになった。

モンスタースープ
顕微鏡の中のテムズ川の水
https://www.branchcollective.org/wp-content/uploads/2012/05/ThamesWater500px.jpg

 『ドラキュラ』のなかで、ストーカーはドラキュラの隠れ家を死の臭いのする瘴気に満ちた場所として描いた。
 それでは、ストーカーは細菌説については無知ないしは無関心だったのか。

 「むろんそうではありません」と丹治氏は云う。ストーカーの兄弟三人は医者だったそうだ。
 ドラキュラと戦う登場人物の内、ヴァン・ヘルシングとシュワードは医者だ。物語の中で、シュワードの患者のレンフィールドがドラキュラから致命傷を負わされ、ヴァン・ヘルシングとシュワードが緊急手術を施すが、その必要な医学知識をストーカーは兄のウィリアムから得たそうだ。
 ストーカーは、おそらく当時の一般人よりは確実に多くの医学的知見と、医学に対する幅広い関心を持ち合わせていただろうという。


 今回はここまで。次回は『ドラキュラ』の作中にも、細菌学の知識を取り入れた部分があることなどをご紹介。
 お楽しみに。

 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?